唯識の死生観と三島由紀夫 上野 剛
『豊饒の海』とは、三島由紀夫の遺作である。三島は最終巻『天人五衰』を書き終えた後、自衛隊に乗り込み、自決した。私の長らくの疑問はなぜ三島が壮絶な割腹自殺を遂げたのかということだった。『豊饒の海』はモチーフとして、唯識の教説を取り入れている。唯識とは、瑜加行派と呼ばれる宗派の教説で、「眼識」・「耳識」・「鼻識」・「舌識」・「身識」・「意識」・「末那識」・「阿頼耶識」の八識説を唱え、この世のあらゆるものは識によって作り出されたものにすぎず、それはこの世はいわば幻のようなものであるということを説いた。「識」とは「心」のことである。「心」のみしかこの世には存在しないということである。「眼識」~「身識」はそれぞれ視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚に相当し、「意識」は私たちの日常的に使う意識のことである。「末那識」とは我執の識で、「阿頼耶識」とは、ほかの七識を貯蔵している識である。唯識は「阿頼耶識」をたてることで、輪廻の主体は何であるかを説明することができ、さらに、それまでの龍樹が唱えた空論のニヒリスティックな部分を克服した。それは、この世は識が作り出したものであるという形で一旦肯定したからである。作家として、あるいは戦前・戦後を生きた人間としての三島はニヒリズムに陥り、その救済としての道を唯識に見出したのではいだろうか。それは『暁の寺』でこの世が存在する理由を「道徳的要請」と述べているように、解脱するためにこの世はあらねばならないというこの世の保障が三島を救済したのである。そしてこの世は識のあらわれにすぎない以上、生きている世界は幻である。しかし、三島はこの世が幻であることを承知の上、その幻を演じきったのである。それは「奔馬」の主人公である飯沼勲が、幻となった計画を頑なに遂行するようである。そして唯識がこの世が識のあらわれと説くならば、生と死の境界もなくなるのである。それは生や死に執着することに対する否定である。三島は駐屯地で生に執着することへの批判を訴えたのではないだろうか。檄文に「今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる」と述べている通りである。「われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ」と主張する三島は、切腹というの本の伝統により、自決を遂げたのである。