係累なき死 鈴木雄太

私たちは日々死について様々な形で見聞きするが、大半の場合それは聞き流されるにとどまる。死はどこまでいっても「他人の死」に過ぎず、まだ当分は自分の番ではないだろうとこころのどこかで考えている私たちはしかし、死の事実から目をそむけているだけなのではないか。こうした死から目をそむけて日常の中に埋没した生き方をハイデッガーは「非本来的」と呼んだ。私の友人の死はあくまで私の友人の死であり、どこまでいっても私の死ではないが、同様に私たちは私たち自身で私たちの死を引き受けねばならないという死の係累のなさを私たちは忘れている。しかも、死はいつ訪れるかまったく分からない。自分の死は自ら引き受けねばならないこと、自分はいつ死ぬか分からないことを考えれば、他人の死の報を聞いて安穏としていられるわけがない。

しかし、いくら死が係累のないものであると知ったところで係累なき死を意識する私は必ず死ぬ。だとしたら一体死を考えるということは何の意味を持つのだろうか。ジャンケレヴィッチはこの問いに対して死に対する死の思惟の優越をもって答えている。死の思惟はあくまで死の思惟であって死ではなく、思惟というその行為は死を包摂するものだとジャンケレヴィッチは考える。ゆえに思惟自体は死の外に立つのであり、死よりも高次のものである思惟の生には死などない。だから、ジャンケレヴィッチはこう結論する。「生そのもののなかに私たちは滅びることのない実存の証を見出すことになるだろう」と。

しかし、そうして開かれた永遠とは、どこまでいってもたった一人であるような孤独な永遠ではないだろうか。「係累なき死」を思惟する私が「この私」である以上、そこで開かれてくる永遠も「この私の永遠」以外のなにものでもない。そこには別の呵責なき係累のなさが待ち構えてはいないだろうか。

本当に死は係累のないものなのだろうか。私たちの生きてきた年月は、私たちが死んでしまったら全て終わりなのだろうか。この死の大前提に疑義を差し挟む可能性を有するものは、ニーチェによって哲学的な次元まで引き上げられた系譜学である。そもそも私たちはどこから来たのかとそれは問う。私たちの両親でありその先祖が紡いできた系譜の中に私たちは生じてきたのではなかったのか。そして私たちもまた自らの血を子に分けこの系譜を私たちが見ることもかなわないようなずっと先の未来につないでいくのではないのか。だとすれば死とは係累がないにもかかわらず係累を持つものであると言わざるをえないのではないか。そうこの系譜学は問うているのである。

そして本論の結論は以下のようなごくシンプルで、使い古された感のある事実の再確認となるはずである。すなわち「私が死んだとしても、誰かが私のあとに続くだろう」。