フクシマからの証言 東 宏太郎
二人の年齢を足すと145歳になる私達夫婦は、今、日本海を見下ろす丘の上の鉄骨の建物の中で、避難生活を送っています。ここへ来る前の私達の住いは、小鳥の声と多くの花々に囲まれた、緑豊かなフクシマの里山にありました。直ぐ傍を流れる渓流には、岩魚が住み、ホタルが飛び交い、静かで優しい人々の、善良でつつましい日常が、平和な時を刻んでいました。それが、あの1911年3月11日の未曾有の大災害に翻弄されてしまったのです。
20代の始めに知り合い、東京で畳3畳の貸間に、蜜柑箱ひとつ、毛布一枚の生活から始まった私達は、懸命に働き、税金を納め、年金法を守り、政治の事には口出しせず、祖国発展の為の裏方の一員として、無我夢中で年月を重ねてきました。私の職業は、グラフィック・デザイナーでしたが、60歳を過ぎて、年金が受給出来るようになったら、都会の喧騒を逃れ、健康に留意し、国家に医療費などで迷惑をかけないように田舎暮らしを始めようと切望してきました。そして東北出身の妻と探した理想的な土地が、ここ福島にあったのです。場所は阿武隈山脈の中ほどに位置する過疎地ですが、私達の経済力で、理想の広い土地を手に入れるには、ここしかなかったのです。それにこの地方の自然の鮮やかな美しさも、私達を決意させるには充分でした。
国が起こした理不尽な戦争で、大学教授だった父を失い、母子家庭となって少年時代をすごし、母と死別して以来ずっと貸間暮らしだった私が、東北の農家の出身で、飲食店で働いていた妻の助けもあって、ようやく定年退職となり、ささやかな貯金と、生命保険を解約したお金で、とうとう広い一軒家を建てる事が出来たのです。
それから僅かな年金では生計が立たないので、始めの計画通り、周辺に畑を作ることにしました。山林を切り開き、木の根や岩石を掘り起こし、石ころを取り出し、茨や笹の根を抜き取り、倒木を整理しました。ちゃんとした畑にするため、10トンダンプで5台黒土を入れ、2トンダンプで6台牛糞を入れ、軽トラックで10台籾殻を入れ、米糠1トンをすきこみ、薫炭30袋を混ぜ、枯葉を集め、生ゴミや廃棄土を積み上げて堆肥を作り、鶏糞や石灰、油粕などを撒き、小さな耕し機で何日もかけて耕し、溝を掘り、猪よけに電気牧柵を張り巡らし、ようやく普通の野菜が出来るようになるまで、実に三年の月日を要しました。
今年の春には、厳しい冬を乗り越えた野菜たち……大株、玉葱、キャベツ、アスパラ、絹さや、ブロッコリー、ほうれん草などが逞しく育ち、収穫を待つばかりでした。多くの労力と汗が、喜びに変わるはずでした。
またじゃがいも、レタス、茄子、トマト、さつまいも、などの植付けの準備もそろそろ始めようと、有機肥料や石灰を20袋買ったばかりでした。林の中には椎茸やなめこの原木栽培を行い、うどを養殖しました。花壇にはヒヤシンス、チュウリップ、バラ、ビオラ、クロッカス、芍薬、福寿草、浜茄子、菊などが育ち、植木では馬酔木、蓮華ツツジ、三つ葉ツツジ、更紗どん、こぶし、くろもじ、れんぎょう、桜、銀杏、桃、林檎、無花果、ライラック、栗、椿、加賀梅などが花を咲かせつつありました。チェーンソウや斧を買って炭焼き職人の手伝いをしながら薪をきり出し、省エネのために設けた薪ストーブを、あの地震の時も焚いていました。
この荒地でここまでくるには、5年の歳月を要したのです。その間、妻も私も朝早く、一旦外に出たら夕方まで家に入らない日々を続けたのです。足腰を痛め、指が動かなくなり、目も不自由になってきましたがつき10万そこそこの年金でやっていくには、野菜造りはやめられません。病院に行く余裕も有りません。その上健康の為には、無農薬野菜を造り、こまめな農作業をして、運動不足を避け、体を作る必要があったのです。それらが、あの3月11日の大地震で見事に破壊されました。いえ、正確に言えば、あの地震の後に起きた大事故が、私達の生活のすべてを破壊したのです。その日、私達は、凍土と化した畑の土を掘り起こし、一息つこうと家に入ったところでした。何秒か前の、テレビの警告放送の後、始まったあの烈震の最中、妻は必死で食器棚を支え、私は電子レンジや洗濯機の倒壊を防いでいました。……長い、長い揺さぶりでした。新築5年目の我が家の柱が、ガタガタと震え、全体が悲鳴をあげていました。これでおしまいだ、という気がして、妻の方を見て切なくなりました。しかし、家は何とか持ち堪えてくれました。妻が大事にしていた食器を入れた民芸家具が倒れ、大皿が3枚割れただけでした。外周りも、土盛をした部分にひびが入り、石垣が少し崩れただけでした。……問題はその後だったのです。
翌12日、村の役場付近が、浜通りから非難してくる人々でごった返している、との情報が流れました。低地では恐るべき大津波が襲来していたのです。米や味噌、毛布が足りないから提供してくれと言う放送も有りました。しかし、何故だろう。そんなに多くの群衆の大移動が始まったのは、何故だろう。原発で白い煙が上がった、という話も耳にしました。そして、それはただの白い煙ではなく、原子力発電所の爆発だった、という事が、後でわかったのです。
14日の朝、正確な情報も無いまま、何も知らない私達は、炊き出しのボランティアとして、味噌やたくあん漬けをたずさえ、浜通りの人たちが集まっている体育館に向かい、一日中、野外で野菜の皮むきや仕込みの手伝いをしました。この日の11時ごろ、原発の3号機が爆発したことなども、私達は聴いていなかったのです。いつもなら車で30分もかからない浜通りから、5時間もかけて非難してきたと言う人たちが6千人(!)体育館や公民館にひしめき、溢れ出た人々は、うつろな目でぼんやり空を見上げ、あるいはタバコをふかし、所在無く座り込んだり、フラフラと歩き回ったりしていました。
そのうちの100人ほどが、私達の集落の集会所へ移動しました。私達も、避難者の為の毛布や布団を軽トラックに積んで一緒に移動しました。皆疲れ切った表情で元気がありません。「何も食べさせてもらえない」と、不服そうに言っている中年の農婦の呟きが耳に入りました。私達は、急いで各自の自宅へ戻り、米を持ち寄っておにぎりを作り、貧しい自分たちのために保存して置いたなけなしの越冬野菜や茸で炒め物を作って、避難者の皆さんに提供しました。後片付けを終えて我が家に帰ったのは、夜10時過ぎでした。
ところが翌朝早く、婦人会の人たちが集会所へ朝食を運んで行ったら、そこには誰もいなかったのです。布団も敷きっぱなしのまま、もぬけの殻だったのです。避難者全員が、夜中に脱出してしまったのです。一体どうしたと言うのでしょう。……実は、原発が次々に、全部爆発してしまった、というデマを信じた人々が、慌てて姿を消したのです。その日の午前10時ごろ、村会議員臨時招集の放送があり、夕方には村長の自主避難を促す放送が、悲痛な声で流れました。「……もうこの村に留まることは出来ません、それでは皆さん、お元気で!……」
〈必要悪〉という言葉が有ります。戦後、祖国復興の掛け声の下、それが必要なら多少の犠牲はやむをえない、という合言葉を唱えながら、国民が一体となって復興に全精力を傾けてきました。私もその先兵として、経済発展のためなら、廃止すべきものと、育成すべきものを差別し、宣伝してきました。
マイカーの為に道路を貫き、マイホームのために山を切り崩し、ゼネコンのために海を埋め立て、電力の為に原発を乱立させ……その陰でどれだけ多くの善良な魂が、どれだけの貴重な文化が抹殺されて行った事でしょう。どれだけの利権が動き、どれだけの良心が踏みにじられたことでしょう。〈必要悪〉……それは人類始まって以来、常に歴史と共に、人類にとりついた悪魔の囁きでした。復興の為、経済発展の為にやったことだ……そしてあの地震さえなければ……だが相手は地球なのです。毎日流動している地球です。地震も津波も地球にとっては当たり前の活動、眠っていたり、突然目覚めたりする活動なのです。その地球を相手に〈想定外だった〉などという言葉は通用しません。想定外のことを想定して万全を期す事が、科学者にも企業にも政治にも課せられた、義務そして責任だったのです。
原発が灯す繁栄の光は、極端に言えば殺人光線でもありました。不用意に引き起こされたメルトダウンは、生活を破壊し、人々の心に空洞を開け、地獄へ直通するトンネルを掘り、最終的には地球を溶解する破目となる。国家と原発の利権に群がる強欲で鈍感な人々よ!私達に残された時間は、もうもうそんなに長くはありません。あの、春告鳥が鳴き,雲雀が遊び、カッコウが待っている里山へ、早く帰して下さい。この空虚で、仮死状態の理不尽な避難生活から早く救い出してください。安全で健康な土地を、静かで平穏だった日々を返してください。
福島県双葉郡川内村より
※付記(川桐信彦)
上記の書簡の著者東氏は、この書簡の冒頭で述べた日本海に面する建物から、この書簡を当学会宛に送付された。その建物と言うのは、氏のご子息が東芝の東京本社から北陸方面に出張中、宿泊されていた場所のことである。彼も、大震災に直面し、ご両親が滞在していた郡山の避難所まで車で両親を迎えにこられ、その東芝の社員寮へとご両親を案内されたのである。郡山での避難所の惨憺たる有り様に、ご子息も胸を衝かれ、会社の社員寮へ徒ご両親を連れ去ったという。この書簡を東氏はそこで書き上げ、与党の代表者、朝日新聞の編集長、原発の社長宛にそれぞれ送付されたが、何の反応もなかったとのことである。
賠償問題にしても、漁業団体、農業団体あるいは諸企業に対しては反応を示すが、個人が築き上げた生活にたいしては、反応、対応が遅いのではないか。現政府は原発問題のみならず、北朝鮮の拉致、北方領土、中国の領海侵犯などの問題に対しても、まるで腐った遊女の如く、あなたまかせ、運まかせなのだ。
(終)