連載(第1回)論文「精神文化学的考察」 川桐 信彦
はじめに
私が学んだ京都大学大学院の文学研究科には、思想文化学という専攻課程がある。その中に、哲学、美学、倫理学、あるいは、キリスト教学や宗教学などが網羅されている。思想文化ではなく精神文化といった場合、何が網羅されるのか。おそらく思想文化と同様の中身が考えられる。従って、思想を精神という言葉に置き換えることによって際立たせようとする意図が明白でなければならない。精神ということによって先ず明らかなのは、文化を感性の視点から捉え直すことである。精神と感性は、それほど密着している。
ところで世界の現実的状況はどうか。2008 年から 09 年にかけて金融危機やそれに伴う不況といった深刻な経済情勢、地球温暖化といった我々が住む地球上の生きる条件が次第に脅かされつつあるという現実、精神的には理想と現実のギャップの深まりといったマイナス要因の増大などが考えられる。そうした状況の中でオバマという初めての黒人大統領がアメリカで実現し、乗り越えられる危機という意識が芽生えたことは慶賀にたえない。
自由・平等をスローガンとするアメリカにおいて、200 年以上続いた人種差別、二度の世界大戦などは、いくら差別撤廃や平和を望んでも無意味だとする一種の虚無的な感情さえ生み出してきた。このような精神的、物的、環境的現実が示すものは、人がいっそう精神的な方向へ向う、あるいは向わざるを得ないという重大な啓示である。
よく神は沈黙するということが言われる。果たしてそうだろうか。人が引き起こす様々の現象、事件、歴史、そして芸術、思想の天才たちが提示してきた作品群によって提示さ4れた啓示は、沈黙どころか、永遠的なるものが饒舌に真理を語っていると言えよう。そのような基本的視点から、以下の項目、諸主題によって、精神文化学的な考察、ないし洞察を記述したい。
第一章 精神とは何か
ここで精神をめぐる概念を抽象的にもてあそぶ意図はない。正義、創造性、価値判断、生と死、あるいは永遠などに思いをめぐらす時、そこに精神性というものを我々は感じ取る。こうした概念を考えること自体が、きわめて精神的なことである。そして、いずれも我々の行動性に直結する。我々の行動は精神的なものから出発すると言って良いかもしれない。
元ハーヴァード大学教授で、神学者のパウル・ティリッヒは、現実の意味は精神において現実化されるという立場をとっている。それは我々が、何らかの意味を諸現象の中に見出そうとする時の、精神の力を強調するものである。彼は「精神」の概念を「精神、思惟、存在」という三つの基礎概念の関係性によって展開している。考えたり思考したりする存在であると共に、我々は肉体的存在でもある。肉体的存在であるということは、我々が聴覚、視覚、触覚、嗅覚、味覚といった五感を有する存在であることを示している。すなわち、五感を伴う実存的存在性と思惟する存在であることを切り離して精神について語るのは、片手落ちであることを示しているのである。
このように精神の問題は、自然の問題と並列して哲学の根本主題であった。その事実を、我々は哲学、あるいは思想の歴史から学びとることができる。プラトンの「イデア」、アナクサゴラスの「思惟の思惟」、ストア派の「理性」といった概念は、いずれも精神的特質を示すものであると同時に、宇宙万有の原理だとされた。西欧の思想を考える上で避けることのできないキリスト教では、創造主である神の特質をきわめて精神的なものとし、人間の精神はその「似像」だとされてきた。従って、その哲学は「精神」に基盤を置き、神を志向するものであった。
精神を重視する哲学観は、デカルトの「思惟する我」以後、さらに近代における思想の5特徴的なものとなる。しかし精神を究明したり、精神を根拠として思惟することが直ちに精神哲学だとは断定できない。精神を根拠とする哲学や精神の究明は、霊魂・心理論、意識・自我論、精神・認識論といった哲学の一つの領域をなすものにとどまっていると言えよう。
精神と自然を区別し、両者を等置する二元論と、精神に自然を包含させる一元論から出発する精神哲学は、前者がデカルト、後者がスピノザによって代表される。その後、ドイツ観念論において精神は全体を包括するという哲学が、以下のように展開する。
(1) カントは、理性と経験という二つの源泉が認識にあるとし、学問というものを概念に基づく合理的哲学と与件に基づく記述的哲学に大別した。
(2) これを継承して超越論哲学と自然哲学とを区分し、超越論哲学の絶対性を強調したのがフィヒテである。
(3) 逆に、自然哲学を重く見て芸術による媒介を志向したのがシェリングである。
(4) さらにヘーゲルは精神を原理とした論理学、自然哲学、精神哲学の三つの部門の動的な円環過程を通して、理念と実在の総合体系を構想する。
精神の自己認識が一切の目的だとしたヘーゲルは、精神が自然と歴史過程において自己を展開し、自己を回復させつつ理念を実現する運動全体の叙述こそ哲学の課題だとした。精神が全体を包含するこの精神哲学は、最も完成したものとされた。
精神的にシンドイといった日常的表現は、心理的ショックを指し示すものだが、精神という言葉が、単純に心理的作用のみを意味するわけではない。それは人間が人間としてあるべき基盤であるとともに、この世界の啓示を読み取り、未来へと創造的に取り組む源泉と言うべきものである。ともすれば安易に「精神」という言葉で何らかの内面的事柄を伝達するが、精神に関する歴史的概念の変遷をたどっても、これが容易ならざる言葉であることを、我々は知る事ができる。そして、先ずドイツ観念論哲学が、精神を考察する一種の方法論を提起してきたことを指摘したが、我が国における精神とは、どのようなものであったのか。「精神」ないし「精神的なもの」とは何を指していたのか。
第二次世界大戦前、そして戦中の我が国では、精神的なものを代表するのが、先ず武士道であった。あるいは禁欲的、儒教的なものによって覆い尽くされていた。それらは自由を奪うような性質のもので、次第に「忠君愛国」、「滅私奉公」、そして「一億一心」といったスローガン的なものに集約され、軍国主義的、国家主義的なものに統合されていった。
その自虐性は、一億が一丸となって爆砕するといった、暗黙の目的意識に連結していた。
終戦となり、毎日、死と向き合ってきた多感な昭和一桁の人たちは、価値転換に向き合うことになった。天皇という神が人間となり、教科書の大部分が墨で黒く塗りつぶされた。多数の人々の死、および生活の破壊は一種独特の虚無感を生み出していた。スケプティシズム、ニヒリズムがはびこり、酒、性的逸楽、ジャズ、ロックなどで時間を消費した。ある意味で、これらは精神の瓦解、または崩落である。こうした現象を精神の瓦解、崩落と見るのは、残留した精神である。つまり暴力、ニヒリズム、スケプティシズムの果てにおいても精神は生き残っていた。
このような人間の執拗な精神の働きは、人間相互に働きかけ、ある個人の死によって消滅したりするものではない。現に精神現象学では、個人の意識のうちに、過去の人間精神の歴史が沈殿していると考えられる。個人の精神は、人類全体の歴史的精神を担っている。西洋において精神は、肉体に宿る魂、といったイメージである。最近の脳科学の影響下に、精神は生理学的には脳の働きと同じモノとされたりする。但し歴史的には、精神は宗教的解釈が長く継続し、キリスト教の三位一体論では、神を父とし、子をキリストとし、これらが聖霊、即ち神の精神と一体を成すとされた。精神はラテン語ではスピリトゥス、ギリシャ語ではプネウマ、フランス語ではエスプリ、英語ではスピリットなどと表現される。そして、先に述べたドイツ観念論の経過とともに、精神はドイツ語のガイストという表現によって、内面の人間知の作用と考えられている。ガイストはプネウマやスピリトゥスとはニュアンスを異にし、より合理的、知的解釈を伴いつつ、より突っ込んだ概念の認識に向っている。
特にシェリングは、精神は自然と同一の本性を持っているとし、自然を目に見える精神、精神は目に見えない自然だとした。ヘーゲルは自然の無力を協調し、そこから次第に人間精神と自然の隔離が明瞭となっていった。ヘーゲルにおける精神は、内面の様々な意識の段階を経て理性へと高まる<主観的精神>と、法、人倫、国家のような客観的世界の形態をとる<客観的精神>に分離されたりする。宗教や芸術を生み出すものが<絶対精神>だとされ、種々の形態をとって現れる精神について考察するのがわれわれの<精神文化学>だといえよう。「精神とは精神がなすところのもの」(ヘーゲル『法の哲学』)などと言った表現に、ドイツ観念論の性格が見えてくる。いずれにせよ、精神は自己の内実そのものを形成し、且つ自己を知る純粋活動をなすものだと言えよう。
我々は苦悩する。現実と理想の落差に、生の意味が不明な時に、目標が定まらぬ時に、自らの思惑と異なる方向へ進まざるを得ない時に。苦悩は完成と感情に連結した精神作用である。この精神作用について今少し、ヘーゲルの考え方を参照したい。
ヘーゲルは精神構造を、いわゆる弁証法という論理形式によって展開した。これは自己自身のうちに自己否定という契機があり、この「否定」がそのまま「止揚」となるという形式である。つまり、自己否定を経過して止揚に至るプロセスを反復しながら、主観的な意識の諸形態から、客観的な意識の諸形態へ、さらには絶対的な形式へと精神は高まっていくという。精神の絶対的な形態というのは、他者を自己のうちに媒介し、それを自己存在の契機となし、他者存在を自己の内に包摂してしまうというものである。
精神科学においては、人間を物理的存在と精神的存在としての生の統一体と見なし、歴史的、社会的現実を対象と見なす学問である。即ち、歴史的、社会的現実に現れた諸現象、例えば、文化のようなものも、言わば人間精神の営みであることを、それらの学究的分析は明示していると言えよう。
これらを少しまとめれば、経験科学の全体は、自然科学と精神科学に分別される。そして、精神科学は歴史的社会的現実を対象とする諸学の全体である。我々に馴染みのある表現では、人文科学と社会科学を包括する学問の領域である。文学、哲学、美学、社会学、法学、倫理学などが、いわゆる精神の領域内にあることが理解される。歴史学を精神科学と名付けた学者(ドイツの歴史家ドロイゼン、1808-1884)も存在するほど、歴史は精神の痕跡であると見なされている。
さてフロイトの精神分析学は、抑圧されたものを引き出し、無意識なものを認識することを可能にする試みだが、このような学が出現したのは、それだけ人間の精神の深みと不可解さを明らかにしていると言えよう。自閉症的怠慢や宗教的教義に胡坐をかいた現在の精神的状況を脱し、精神の本来的使命である創造性と正義感に充ちた生を、我々は獲得すべきであろう(以上に関する文献は次回に公表する)。
第二章 感性とは何か
言葉にならない感情などない、と言った人がいる。おそらく愛だとか激怒といった感情的な要素をテレビ・ドラマなどから蒐集して、そのような感覚で「感情」について考察した結果だと思う。しかし、カンディンスキーの抽象芸術論の発端は、人には言葉にならない微細な感情というものがあるという感覚から出発している。ハイデガーの状態性論においても、種々の感情の存在が明らかである。感情を単に喜怒哀楽という基本的要素だけで考える人と、多くの絵画や音楽の中に、非常にデリケートで複雑な感情の多様性を発見する人の違いは大きい。また、思考のスケールと強大さではどの作曲家もバッハには及ばぬとか、ロストロボーヴィッチ程の演奏の大家は少ないといった感覚も、それを言う人に固有な感性に由来している。このように、感性によって特定の事柄を議論する時の中身は、大いに違ってくる。
宗教哲学者のパウル・ティリッヒのボードレール論を読むと、芸術的感情と宗教的感情の差異が明瞭である。両者の感性的違いは、詩人の評価までも左右する。ティリッヒは、現実の意味は精神において現実化されるという立場をとるほどに、我々が何らかの意味を諸現象の中に見出そうとする時の精神の力を強調する。彼は「精神」という概念を「精神、思惟、存在」という三つの基礎概念の関係性によって展開している。考えたり思考したりする存在であると共に、我々は肉体的存在でもある。肉体的であるということは我々が聴覚、視覚、触覚、味覚といった五感を有する存在であることを示している。即ち、五感を伴う実存性と、思惟する存在であることとを切り離して精神について考えるのは方手落ちであることを示している(精神の概念については、私の博士論文を基盤として書いた『精神と芸術』を参照されたい)。
またチェーホフは、その短編小説の中で「魂とは心理的な実体の不確実な客観である」と言っている。これは正確に把握し難い表現だが、どれほど先端的な科学の保有者でも、種々雑多な芸術思潮の洗礼を受けた人でも、宗教的感情や精神的感性と無縁ではない。論理的整合性以上のものを、例えば、脳科学者の茂木健一郎も文学や音楽、あるいは宗教の中に見出そうとする。
いわゆる哲学でも神学でも美学でもなく精神文化学を標榜するのは、これら諸学に総合を意図するのみならず、生きた思想の回復、あるいは芽生えを祈願するからである。宗教や神学が一部の伝統主義者や狂信者によって支えられてはいるものの、それらが現実には死に体であるのは否めない。そして人のエゴ、独善、非道徳性も顕著となっている。そのような状況において、精神文化学の占める位置や使命はより一層重要であろう。それが真の宗教性と芸術性を追求する限り、人の精神性は不滅である。そして、我々がその感性において認知しうる宗教性は、卓越した音楽や美術作品においてである。感性なき知性は不完全であり、知性なき感性は醜悪だということもできる。
我々は「崇高」という概念を持っている。俗性から解脱し、上昇志向に向う時がある。上昇志向は、社会的地位についてのみならず、感情的にもはるかな高みを思考する。
(以下、次号に続く)