『君主論』と『国家』から見るリーダーの資質 下中歩美

<はじめに>

国家を考える上で、<善いリーダーとはどのような人物であるか>について探ってみたい。なぜなら、善い人間は善い組織を作り、善い組織は善い国家につながるからである。もし、今わたしたちが所属している会社や組織のリーダーがリーダーに相応しくないと思ったら、実力をつけて取って代わるのも手である。そして、今人を動かすようなリーダー職に就いている人には、ぜひそれ相応の実力を持ち、それ相応の振る舞いをしてほしい。でなければ、その地位を維持するのは難しい。

<『君主論』とは>

イタリア、ルネサンス期の政治思想家ニッコロ・マキアヴェッリが当時のイタリアを強固にするために著したリーダーシップ論。民衆を統治するための方法が記されている。
本の特徴として、君主がいわゆる「民衆を第一に考える優しい人物」「民衆から賞賛される人気者」ではないということが見受けられる。つまり、「君主は時に残酷さも必要であり、悪評を得ることもある」。これは現在にも十分通ずるノウハウであり、例えば、ビジネスにおいて嫌われたくないからと部下や従業員のことを考えるあまりに下の者に合わせて行動するトップはリーダーに相応しくなく、すぐに下克上が起こることが予想される。

<『国家』とは>

古代ギリシアの哲学者プラトンの作品であり、第一巻から第十巻に分けて、正義について国家を例に論じており、同時に国家論や正義について、また哲学の重要さについても解説している書物である。プラトンの書はいつも対話式なので、まとめ方が難しいが、『君主論』と比較して言えることは、「君主は哲学者でなければならないし、有徳者でなければならない」ということである。節制や理で悪い欲望や獣的な考えをコントロールし、正しい教育を受けて不正をせず正しく生きることが善き国家に繋がると主張している。現代で言えば、利益を求める為に食品偽装をしたりせず(これは大袈裟だが、粗悪品とわかっていながらバレないから売ってしまおう、くらいの不正は日常的に行われているかもしれない。ほか、ただの飲み代を経費で落とすなど。)労働基準法に違反したりせず正しく会社・組織を運営することである。

<二者の共通点>

マキアヴェッリとプラトンで全く同じ主張をしているものがある。それは、“先頭に立つ者はその資質をもった者のみがなるべきである”ということである。
マキアヴェッリは「能力のある者が領土を獲得するのは称えられることでこそあれ、能力のない者が是が非でも獲得しおうとするのは、誤りであり非難に値する。」(p.45)と言っており、
プラトンは、善き国家はどういうものかについて、国を統治する守護者はどのような人物が適しているかについて論じている際に、善き国家とは、国民それぞれが適している職業についていることである、と結論づけた。
「すなわち、ほかの国民たちをもまたそのひとりひとりを、それぞれが生まれつき適している一つずつの仕事につけるべきであって、そうすることにより、国民のひとりひとりが自分に与えられた一つの仕事を果して、けっして多くの人間に分裂することなく真に一つの人間になるように、ひいてはそのようにして、国家の全体も自然に一つの国となって、けっして多くの国に分裂することのないようにしなければならないのだ」(『国家』上p.302)
したがって、彼ら二名から、資質のない者が上に立ってしまうとすぐに組織は壊れてしまうということが分かる。下にいる者達は上が本当にリーダーとして相応しいのか判断する必要があるし、自分には資質があるか/ないかと考えるのも大事である。なぜなら、下手に上に出ても、力がないと結局また組織がガタガタになってしまう危険性もある。周囲でリーダーに相応しい者がいるかしっかり吟味して、擁立させる方が遥かに今後の安定にも繋がる。では、一体リーダーに相応しい資質とは何であるのか。

<マキアヴェッリ的リーダー資質>

【実力でのし上がることができる】
→もし、幸運が巡ってきても力がないと何もできず、力があっても運が巡ってこないと、チャンスを活かせない。運とは実力である。自らの力によって上に立ったものは、権力を維持するだけの力を持つ者ということになる。反対に、幸運だけで上に立った者は、結局のところ長く続ける力を欠いており、すぐ潰れる。なぜなら人間の意志や幸運は変わりやすく、運命に翻弄されやすいから。今、自分を支配している者が棚ぼたでのし上がったのか、ちゃんと経験を積んでそれなりのスキルを持っているのか、判断材料にもなる。
【長期的なスパンで世論を見、時代に対応して不断の努力を欠かさない】
→運命や時代が変わっても、普段からいついかなる場合を想定して努力をしていたら、運命に抵抗できる。運命に頼るリーダーは、運命の変転とともに滅亡する。時勢に適応して自らの行動を順応させられるリーダーが望ましい。時勢に合致していない行動や努力は何の意味もない。つまり、前例に縛られ、過去の成功例に引きずられて同じことしかせず、時代が変わっても行動様式を変えないようなリーダーは運命に翻弄されるだけである。
【慈悲深さよりも残酷さを持つことができる】
→一番に考えるのは組織の維持・存続。経済状況により能力の低い誰かを降給・解雇することが必要なときもあるかもしれない。しかし、ここで躊躇していれば全員で貧乏になって、結局全ての被支配者に損害を与えるが、残酷さは一部の人間だけが処罰を蒙る。被支配者の団結と忠誠を維持するためには、残酷だという評判を気にするべきではない。また、残酷さが必要な時は一気に行うことが必須である。なぜなら、小さいことでも何度も繰り返すと人間は不安になり、また反対に恩恵は少しずつ与えてあげると、人はそれをするめみたいにより良く味わうので効果的である。
【愛されるよりも恐れられるべき】
→人は恐れている者より愛している者の方が簡単に裏切ることができる。人間は変わりやすく臆病で貪欲であるから、損得でいつでも好意での関係を切れる。しかし、恐怖で繋がれている関係は切れない。愛は相手(被支配者)の意思で、恐怖は支配者の意思であるからである。恐怖で支配しろ、と言っているわけではなく、八方美人になって結局憎まれ口を叩かれたり、他人を信用しすぎて不用心になったりすべきではないということを主張している。可能ならば、愛され、また恐れられるのが望ましい。何よりも下の者をついてこさせることが大事で、この理論をわかっていないと裏切られる危険性もある。
【有徳者である必要はない】
→ここが、プラトンと一番違う点である。例えば、従業員に正しく働いてもらうためにはそれなりの休養も与えるべきである。そちらの方が不満も抱かせず、作業も効率が良い。しかし、それは時と場合による。もしも納期ギリギリのものがあったなら、サクサクと定時で帰らせるわけにはいかないし、休日出勤の必要もあるかもしれない。もちろん残業続きだと従業員の不満は溜まるだろうが、そのまま過ごし会社に損失を与え給料が減ったりリストラされたりしたら、結局は全体がダメージを受けることになり、さらに社内の不満分子は溜まる。全ての資質を持つリーダーなどいないし、しかも、自らの職務において、全て良いことを実践しようとすれば、良からぬ人々の間にあって破滅に陥ることもある。悪徳はさけるべし、しかし支配維持ができなくなる善よりは、悪評を得る方が大事なのである。これを断行できる覚悟が必要である。
【信義よりも狡賢さを持つ】
→これも、プラトンの論と異なる意見である。歴史が表すように、人間というのは邪悪なのでリーダーに対する信義は守らない。だから、リーダーも守る必要はないのである。信義よりも狡賢さ、必要なのは、慈悲深くて信義に厚く、人間性に富み、正直に見えるよう振る舞うことである。しかし、実際にそうである必要はない。人を利用することしか考えていなくても、上手に利用して利益を出していたら誰も批判しない。権力を維持するためには人間性や、美徳に反することも必要であることを知っておくべきである。結局のところ、人間は外見と結果しか見ない。結果さえよければ何も怖いことはないのである。

<プラトン的リーダー資質>

【知への愛がある】
→この一言に尽きる。幼少の頃から、あらゆる真実をできる限り憧れ求め、学問に対して常に積極的な熱情をもっていること。そしてその熱情は、一つの分野・カテゴリーにだけ及ぶのではなく、その他一つのことについて関わりのある全てのことについて知っている、または知ろうとすること。例えば、会社を経営するにおいて、法律を知っているだけではもちろん成り立たず、金融にも詳しくないといけないし、時代を先読みする力も必要であるし、従業員の扱い方:人はどうすれば一番やる気が出るのかなども知っていなければならない。だからこそ、知識を求める姿勢は必須の資質である。また、知を愛する魂を持っている者は、正しい判断に長けている。なぜなら、物事が正しく判断されるのは経験と思慮と言論(理)によってであり、経験においては、知を愛することによって真実の快楽を子どもの頃から味わっている知を愛する人が最も優れた判定者になり、しかもその経験が思慮によって裏付けられているからである。
【不当な言われに耐えうる忍耐を持つ】
→あえて付け足すならばこれになる。知者である支配者は、自らは金も稼がないし考えてばかりだから被支配者に役立たずと思われている。本当は、知者は幅広い知識を持っていて支配するに値しているのに、被支配者はそれに気づかず文句を垂れる。過去の学校生活を思い出してほしい。委員長やキャプテンなど、リーダーとは孤独なもので、嫌われ者の一面もある。また、社内で愚痴の対象になるのは自分たちをコントロールしている上司郡。陰口を叩かれたからといって弱気になるのは支配者に向いてはおらず、コツコツと忍耐強く組織が上手く運営するように考えることができる者が上に立つべきなのである。
「支配者となるべき者たちは、いろいろの快楽や苦痛のなかで験されて、愛国者であることが証明されなければならない。」(『国家』上p.74)

<結論>

このように、一見、『君主論』と国家は相反するものに見える。しかし、わたしは時間軸が違うだけで国家・組織運営に対して言いたいことは同じだと考える。つまり、『国家』は国家の理想論で、『君主論』は理想が厳しい為に現実を含んだ国家論である。プラトンは正しい教育を受けた正しい人が正しい支配をすると言っているが、実際一人ではそのような職にも就けないし、資金も必要になる。資金を稼ぐためには、不正を働く人とともに働くことになるかもしれないし、周囲に流されて正しさを貫けない可能性もある。また、リーダーになってからも、正しさだけで生きていくのは至難の業である。人の上に立つ者たるもの、人付き合いが肝心であるし、正しさの強調のしすぎは正しくないことにも陥ってしまう。だからこそ、現実に即している『君主論』に頼り、単純に両者の論を合わせたら組織運営においてベストなのではないかと考えた。加えて、「君主≠有徳者」を論拠に「プラトンVSマキアヴェッリ」を主張する人々には異を唱えたい。というのも、『君主論』に「悪徳は必要」とたしかに書いてあるが、それを進んでやれとは一言も書いていないし、それよりも大事なのは“傭兵や援軍に頼らず、ひたすら自軍を大切にしろ”(※後述)という主張だと考えるからである。それに、両論理ともにきちんと国・組織への愛が介在しているのが分かる。プラトンの方は言わずもがな、マキアヴェッリの方も、“自分がただ上に立ちたい”という気持ちではなく“国のために”“よりよく国を治めるには”という感情から、上記のような方法を述べている。したがって、【組織に対する愛があるかどうか】というものがリーダーにおいて必要な、最も大事な資質なのだと、考える。

<参考>

“傭兵や援軍に頼らず、ひたすら自軍を大切にしろ”というのは
実はこれが一番言いたかったことかもしれない。マキアヴェッリは、軍を構成するにおいて傭兵や援軍は要らない、自分の臣民や市民、あるいは部下だけで作った自軍が一番強いと言っている。というのも、援軍はすぐ牙を向き反抗してくる可能性が高く、また、援軍が有能すぎると彼らなしに勝つことができなくなり、結局は自軍の弱体に繋がるからである。傭兵については、傭兵は結局賃金で雇われた愛国心のない者だから、やる気もなく逃亡する危険性もある。つまりこれを会社に置き換えると、非正規雇用ばかりしている会社は危ないということになる。派遣などの外部社員は結局のところ数年で去り、正社員と比べて待遇も違うので責任感も低い。そのため、海外に技術流出する恐れもあるし、ベネッセの個人情報流出事件 やアクリフーズの農薬混入事件 のようなことも起こる可能性もある。順境時はいいが、逆境時に一緒に頑張ってくれるのはやはり自社雇用の正社員である。ゆえに、これからも組織を強固にしていきたいなら、正社員を積極的に多くしていくべきだと考える。

<おわりに>

全くといっていいほどまとめきれておらず、非論理的で、稚拙な文章で申し訳ないです。最後まで読んでいただきありがとうございます。

<参考文献>

・プラトン著 藤沢令夫訳『国家(上下)』1979年 岩波書店
・ニッコロ・マキアヴェッリ著 佐々木毅全注訳『君主論』2004年 講談社