「続 芸術とは何か」 川桐 信彦
序章
※京都大学大学院文学研究科に博士論文として提出した「ティリッヒの芸術神学」の改題「芸術とは何か」(芸術神学序説)に続いて、芸術についてより具体的に、私的に論述しようとするのが本論の趣旨である。
芸術については各芸術家が、自身の創作活動の援護射撃として、あるいはその解釈として、それぞれ多彩な芸術論を展開している。それらを整理統合し、芸術に関する共通の見解や解釈を見出すというのも、藝術を解明するひとつの手法には違いない。だがそれでは芸術とは何か、という疑問にたいする新たな視点を得るのは難しい。従って本論では、私自身が芸術と向き合う時点で発想した事柄を記述したい。
岡本太郎が「芸術は爆発だ」と発言したことは広く知られているが、それは彼が、芸術を爆発という物理現象によって生じる純粋性そのものと見なしたからであろう。芸術は爆発だという仮説を立てて、その仮説に熱中するというのが、おそらく彼の創作態度だった、と見ることも出来よう。岡本太郎については、拙著『岡本太郎』を参照されたい。
私自身「ダリは無精子である」という仮説を立てて、ダリの芸術に迫る試みをしている。この仮説は次のような内容を含んでいる。「ダリの諸作品、諸言動は、精子を含まない精液のほとばしりであり、ダリの高慢、怪奇性、豪胆さはそのことを証明している。シュールリアリストの発想は、現実的なものや具体的なものに対する憎悪によって触発されるが、それはシュールリアリストのプライドが、現実性からの脱却を希求し、観念の強靭さを求めるからである。無精子であることの誇り、自由さ、そして透明さは、激しいダリのプライドの表れである。」
このような仮説を前提とするのは、私が形而上的ないし形而上学的自由を希求するからであり、このダリ論を展開した拙著「脱獄の美学」は、まさに監獄への出入りを自在とするような形而上的自由を示すタイトルである。藝術とはそれぞれの自由を獲得する手段だ、ということも出来よう。現実は余りにも我々を拘束する。何らかの手段で、そうした現実を超脱しようとする。岡本太郎の『芸術は爆発だ』というのも、現実の諸現象や、鬱屈した内的しこりを噴出させたい意志が、こめられている。表現主義や、シュールリアリズムが発生する根拠がそこにある。そして芸術を構成するには、
以下の三つの要素、すなはち「美」、「精神」、「手法」が少なくとも必要なことを、これから論述したい。
第一章 「美」について
芸術は、何を於いても先ず美意識を伴って制作される。制作されたものが絵画であれ音楽であれ、殆ど美意識の所産である事が感知される。我々の生の内容に於いても、日々美を感知しないで済ますことは無い。ノーベル賞作家の川端康成も、受賞に際して、殊更「美しい国、日本」と題する見解を述べている。祖国の美しさが、その文学を育てた、と見ることも出来る。
ショパンのピアノ曲も、ピアノの詩人と彼が呼ばれるようになった程、美しさに溢れている。ベートーベンにしても、そのピアノ・コンツェルトやヴァイオリン・コンツェルトは、それぞれの楽器が響かせる独特な美しさを、フルに引き出した作品である。サルヴァドール・ダリも、例えばキリストを主題とした作品においても、「美しいキリスト」を描こうとした。グリュ―ネヴァルトの残虐なキリストの十字架像よりは、俯瞰したキリストの十字架像を描くことによって、ダリはその美意識を満足させている。つまり何らかの真実、あるいは画家の意志の表現において、美を優先させることさえある、ということである。つまり、美を模索しながら、他の要素を加えていく、と言っても良いであろう。
これが美しいのだ、という視点を、多くの芸術家がその作品によって誇示する。作家がそれを美しいとして出品すれば、それが鉄の塊であろうと、廃材を使ったものであろうと、芸術作品と見なしうる何らかの美が発見される。そして何らかの美意識を持って構成されれば、そこに美的なものが感知され、それによって観客の美意識が変革されたり、促進されたりする。そこで「美」とは何かが問われるが、それは美学上の課題であるから、論述するのは別の機会にしたい。ともあれ藝術が制作される時点で、作家の美意識が先ず働くことは間違いない。三島由紀夫も、小説を書くとき、同じページで同一の表現を反復させることを避けた。あるいは彼にとって美しいと思われる言葉を選択しながら筆を進めていた。我々は芸術によって感動を呼び覚まされるが、多くの場合その感動は、芸術が示す美しさによってである。
第二章 精神
美の次に、精神こそが、藝術創造の要である。ドイツの神学者で、ナチス・ドイツ
の時代に、アメリカに亡命し、ハーヴァード大學の教授となったティリッヒは、「文化の神学」を構想する。文化あるいは藝術をどのように捉えるかという命題を、我々に突きつける。代表的著作のひとつである『現代の宗教的状況』の中で彼は、先ずエミール・ゾラが「ブルジョワ社会の精神に反抗する闘争の表現をなした」、と指摘する。続いてボードレールに触れ、彼がブルジョワ社会への猛烈な反発を示したとし、その反発は感性的反発であって,共同体と実体を失った孤独者の表現以上の何ものでもない、と批判する。精神的態度としての内的超越がない、ということを指摘する事によって、信仰的現実主義という観点を際立たせる意志がそこにある。ティリッヒによればブルジョワ社会は、精神的妥当性が欠落した、いわば病める構造そのものである。そして精神的な共同体、つまり、キリスト教的共同体こそが、こうした病からの救済を実現する、というのだ。だがそのような共同体からはボードレールは出現しないであろうし、おそらくそのような共同体は、退屈極まりないのではないか。つまり芸術は倫理的な価値など求めてはいない。ただ精神的要請として、幾分あるいは大いに、その正義感によって、反戦や政治的弾圧にたいする反抗をテーマとする作品を生み出す。それらはきわめて直情的であり、芸術家の直情性こそ芸術作品の導火線だと言えよう。つまり芸術家の精神とは率直な正義感に満ち溢れ、疑問に率直に立ち向かう姿勢であり、隠された真実を明らかにする働きなのである。そして何よりも自由を強く希求する。
ゴッホの場合、その事が鮮やかに浮かび上がる。祖父の代から聖職者であったことから、彼自身も牧師たらんとして、最初はボリナージュという炭鉱の町で伝道を開始する。だがその直情的傾向が災いして、既存の組織に馴染めず、追放される。ゴッホはその生甲斐を芸術に見出し、全身全霊を込めて藝術創造に従事する。生に意義と意味を求め、その意思を、描くことの中で追求し続ける。絵画の中に、ゴッホの精神が込められ、作品がそれを輝きださせる。ボードレールは言葉を武器に、ゴッホは絵の具を武器に、それぞれの精神的戦いを実施する。藝術はいわばこうした精神の軌跡なのだ。藝術が非倫理的であるとする主張は、ニーチェに於いても見出される。ニーチェが、多くの芸術家に指示されたのは、その著『善悪の彼岸』によっても明らかなように、倫理的拘束以上のものを芸術が希求するからである。
藝術における精神の問題は、真理について言及する場合、一層重要である.真理は本来開示されるものであり、開示されなければ我々にとって真理として明らかではない。だが通常多くの真理は隠されている。それを開示するのが藝術の重要な要素である。それこそが芸術の精神性である。しかも真理を明らかにする、などという意識が
優先することは無い。
第三章 手法
岡本太郎はパリで二度、絵画作品の前で涙を流す。一度目はセザンヌの作品の前で、二度目はピカソの作品の前で。抽象か、シュール・レアリスムか、具象か。どのような手法で自己の心象や感情を視覚化するか。悩んでいた太郎に、成る程これだ、と思わせるものが、これら二人の芸術家の作品にあった。共感でもあり、ある重大なヒントが与えられた。そのことに感動した太郎の目から涙が溢れた。そして非合理的超現実主義あるいは合理的抽象主義の何れにも埋没することなく、それらが互いに引っ張り合う、いわゆる「対極主義」という手法を、やがて太郎は見出す。彼にとって芸術は、抽象や超現実のどちらかに埋没して、安住する精神状態ではない。どちらかに引き合う緊張感にこそ藝術はある、というのが太郎の信念である。
手法の選択は、このように藝術の質さえ左右する。私はこれまで、拙著『表現の美学』、『行動する画家』、『美意識について』等で、それなりに藝術観を披瀝してきたが、芸術に対する態度が、その手法を決定する、という事が明らかとなる。シャガールの超現実主義は、その作品にあらわれているように、きわめてロマンチックである。シャガールは超現実主義という手法によって、その幻想的作品を完成させ、作品的価値を決定させている。何れにせよ芸術は、驚きと喜び,戦慄と歓喜に溢れさせる、特別な神性を佩びている。
(終)