「ニーチェについて」 川桐 信彦

日本でもニーチェに関する研究や論考が盛んだが、ニーチェが正確に読み込まれているとは思われない。ニーチェは誤解されている、と主張する『ニーチェの警鐘』(講談社新書)の著者適菜収もまたニーチェを誤解しているのではないか。第一、父親が牧師で、最初は神学を学んだニーチェの痙攣的反発の書『アンチ・クリスト』に対し、少なくともここに書かれた内容に対し、体質的共感を得るには、かなりどっぷりとキリスト教に浸りきった経験なくしては不可能である。先ずニーチェは、気の弱い神経症的人間だったことに思いを寄せねばならない。人間にたいして警鐘を鳴らすなどと言う芸当が、ニーチェに出来る筈も無い。
彼は創造者たる神のみならず、人間の理性が信じられなかった。神と理性への二重の不信、疑惑は、彼にとって二重の苦渋だった。中でも宗教、哲学、科学をつかさどる理性への不信、は、彼の精神的安定にとって絶望的だった。彼は呟くことで、何とかそのくびきを脱しようと試みた。呟きは、その強靭な知性と鋭い感性によって、奔流の如く溢れ出した。『悲劇の誕生』、『反時代的考察』、『人間的な余りにも人間的な』、『曙光』、『悦ばしき知恵』、『ツァラトゥストラはかく語りき』、『善悪の彼岸』、『道徳の系譜』などの感性的饒舌は、謂わばヨーロッパの知識人に対する反逆の試みだったのである。音楽や絵画や小説など芸術的創造をなしえなかった彼は、反逆者として呟くしかその道は無かったのである。
(終)