デザイナー・ベビー技術と自分自身であることの大切さ 大野 由貴

はじめに

映画『ガタカ(GATTACA)』(1)は、遺伝子操作によって生まれながらに優れた知能や体力を持った「適合者」と、「欠陥」のある遺伝子を持ちうる自然出産で産まれた「不適合者」との間で社会的差別がある世界を描いている。
自然出産によって産まれた主人公ヴィンセントは幼い頃より宇宙飛行士になる夢を描いていた。しかし「適合者」しか資格が与えられない宇宙飛行士は、「不適合者」の彼にとって到底叶わない夢である。そこでヴィンセントは、「適合者」でありながら、両足の自由を失ったジェロームになりすまし夢を叶えようとする…
この映画は単なるSFではない。遺伝子操作によって優秀な子どもを得ようと、親の理想どおりにデザインされた「デザイナー・ベビー」が産まれるのは、そう遠くない将来かもしれない。

第1章 理想の子どもをつくる技術

1、現状の技術

子を持つには、女の子、男の子の順番で生むのが理想的だという、一姫二太郎と言うこ
とばがある。このことばに誘われて何とか「男の子」「女の子」を産み分けようと、法則を
見つけ実践しようとする人もいる。結論からいえば、100%の確率で男女の産み分けを成功させることは不可能である。仮に産み分けを実践しなかった場合、男女どちらかの生まれる確率は50%、産み分け方法を実践することにより、この確率を少し上げることが可能かもしれないという話だ。それでも宗教上の習慣、夫婦や家庭の事情から性別を選びたいのであれば、産まないとすることもできる。そんな取捨選択が行われる時代を迎えているのだ。

妊娠すると産婦人科で定期検診を受け、血液検査や尿検査、超音波診断などで胎児の健康状態について綿密に調べてもらう。この時、羊水検査(2)や「母体血清マーカーテスト」(3)という検査を行えば、胎児がダウン症(4)あるいは神経管奇形(5)である確率を算出することができる。これらの検査は手軽に行えるので、妊婦の側も深く考えずに、普段の検診の流れで受診し産むか堕ろすかの判断を下すことができるのだ(6)。しかし中絶は肉体的、精神的に大きな負担がかかり、日本では妊娠22週を超える中絶は法律で禁止されている(7)。そのため現在では、着床前診断(8)という技術を使う方法がある。着床前診断を行うためには体外受精(9)がなされなければならないが、男女の染色体の選択をはじめ、胚の段階で健康な胚とそうでない胚を選択することができる。健康な胚であれば、その胚を母親の子宮に移し、そのまま育てれば良いし、ここでどうしても子どもに遺伝してほしくない特定の遺伝子形が見つかれば、その胚を子宮に戻す必要はない。余剰胚は廃棄されるか、胚性幹細胞(10)の研究に使われる。
着床前診断にかかる費用は高く、体外受精につきまとう多胎妊娠が起きる可能性もあるが、男女の区別だけでなく、数百という遺伝病・障害の有無が確かめられるこの診断はメリットが大きい。特に産み分けに関しては、各国が倫理面などから規制を敷いている中で、比較的規制の緩いタイが現在注目され、タイで産み分けを行う日本人夫婦も年々増えているという。

2、将来の技術

近年、科学技術は急速に発達している中で、最も注目されているのが遺伝子解読である。
1990年から遺伝子解読の取り組みが行われ、2003年には殆どのヒト・ゲノム計画(11)は完了した。今後も配列の解析は進み、近い将来には完全にゲノムが解析され、性格や病気、才能などを表現する遺伝子すらも解読出来るだろう。ゲノムの配列が解読できると、さらに、遺伝子操作を加え、自分たちの子どもの性質を増強(12)することも可能になる。
子どもには優秀な医者になって欲しい、誰よりも美しい容貌を持った子にしてあげたい、スポーツ選手になって欲しいなど、子どもを持つ予定の親は子どもを産む前から子どもの将来像の夢に花を咲かす。その為に、そうした親は結婚する相手を選りすぐったり、又は、理想の子どもが欲しいがため精子提供者を探し出す。アメリカでは理想の子どもを造る為の手段である精子バンク、卵子提供が普通に行われている(13)。購入する際には、提供者のプロフィールを吟味し、身長、皮膚の色、学歴は当然のこと、SAT(アメリカの大学に入るときの共通テスト)の点数まで要求する人もいるという(14)。それらの精子・卵子を使い遺伝的には繋がっていないが、自分が求める特徴を持つ男性からの精子と女性からの卵子で、自分たちの子どもを作ることも可能になっている。しかし、これにはまだ不確実さが残っており、いくら優秀な遺伝子を貰ったところで、(自分の遺伝子も同時に引き継ぐわけであるから)確実に子どもに思い通りの才能が遺伝するかは分からない。
しかし、適切な遺伝子操作を加えることが出来るようになれば、その不確実さも解消できる。遺伝子操作は、本来の遺伝子を改変して能力を強化することも可能にする。既に賢いマウスを生み出すことには成功しているので、ヒトに応用できることは確実とされている。血のつながった親子でありながら、知能、運動能力、容姿・体型そして性格など、親の希望通りにデザインされた赤ちゃん「デザイナー・ベビー」を造る時代が到来する日も近いかもしれない。もっとも遺伝子操作は、医学的利用の観点からも注目を集めている(15)。

第 2 章 遺伝子操作に対する考え方と問題

1、病気の治療としての遺伝子操作と子どもを選ぶ手段としての遺伝子操作

欠陥をなくし、子どもを「より強く、美しく、健康に」してあげたいという願望を追求するのに何か問題があるのか。親は子供に対してどこまで自由があるのだろうか。遺伝子工学の発達は医学の将来に大きな利益をもたらす。病気の原因を根本からなくし、将来的には病とは縁のない健康な人間が造れるかもしれない。しかし、遺伝子操作という強力な技術を重篤な病気の治療にのみ限って使用するという取り決め(16)は如何にして守られるのか。前章までで紹介したとおり着床前診断や遺伝子操作によって、胎児の異常が発見されうると同時に、健全な胚の選出や男女の産み分けが出来る為、着床前診断や遺伝子操作は子どもを選ぶ手段にもなる。ただ遺伝子操作の前では、どこまでが治療の範囲なのか線引きが難しい。

2、親が子どもを選ぶ手段として遺伝子操作を望む理由

親が自分たちの子どもの遺伝子を改良し、両親の思い通りの能力を増強してあげることは果たして親の権利なのか。遺伝子操作技術を擁護する者たちの主張によれば、基本権として保障されている両親の教育権(17)を拡大解釈すれば、自身の子どもたちの遺伝的基盤を改良する優生学的自由を付け加えることも正当だとしている(18)。
たとえ若く健康な夫婦間の妊娠であっても、さまざまな欠陥が胎児に現れうる。20人に一人のベビーが何らかの先天性異常を抱えて生まれ、その半数近くが小児科医に重症と判断されているのが現状で、欠陥遺伝子による障害も100人に一人の確率で起こるという(19)。
これらの障害、病気が、大切な子どもの人生を損なわないように、完璧な人生のスタートを切れるような子どもとして産んであげたいという気遣いという面では、親が子どもの設計者の役割を演じることにもならなければ、親が子どもを自らの意志や産物や、自らの野望のための道具へと変えてしまうことにもならない。
親には子供を教育する義務や子供の自らの能力や天賦の才を見つけ出し、育んでいくのを支援する義務がある。自分の子どもに最善なものを探す親や、幸福や成功を惜しむことなく子供を支援する親を称賛するのであれば、教育や訓練によって支援したり遺伝子増強を用いて支援することの間にはどんな違いがあるのか。きっとこれも熱心な親が子どもを形取る方法は違っても、同じ子供への愛という精神面は類似しているだろう(20)。

3、親が子どもを選ぶ手段としての遺伝子操作の問題点

(1)子どもの自己決定を不可能にすること

子どもが日常生活で困らないように、障害や病気の因子は排除してあげること、生まれながらに遺伝子上の装備をつけてあげることが、親の責任であるとして道徳的に問題がないかどうかは、子どもの同意を得てからの話である。つまり、同意を想定したうえで遺伝子を操作しても正当化されうるのは、おそらく生まれてくる子どもが嫌がることが予想される明らかにひどい障害、疾患、欠点を防ぐ場合にのみだ。しかし、疾患から価値を見出すときもある。『叫び』を描いたノルウェー表現派の画家エドワード・ムンクは精神疾患に苦しんでいたが、かつてこう語ったという。「病気から開放されたいとは思わない。僕の絵の源泉だから。」といっていたようだ(21)。彼は生まれながらに虚弱体質で長くは生きられないだろうとも診断されていた。常に「死」を身近なものに感じていたからこそ、彼は個人的体験に基づく「愛」「死」「不安」を芸術表現に昇華し、世紀末の人々の孤独や不安を表現したことで高く評価されてきた(22)。この問題の本質は「何をもって幸福な人生とするか」という個人の定義を、親が定めてしまうということだ。
そもそも健康と健康でない人の違いとはなんだろうか。親の義務の中には、子どもの人生における成功の可能性が最大限に高められるよう、健康な人間を増強する義務も含まれていると主張する人々もいる。彼らは、健康とは人間が幸福や福利を最大化するための手段であると考えている。確かに健康の良さは、人柄の良さと同じように健康であればあるほど良い。しかし、障害者や患者は健康ではないからといって、幸福を最大限に感じることができず充実した人生を送れないということはない。例えば、少し個人的な話になるが、私自身も先天性疾患を持って生まれたために、一部の行為において制限されるのはもちろんの事、健康とされる人と比べると自分が選択できる範囲が小さいと感じることもある。
しかし、本人がこれも自らの特徴だと受け止める事が出来れば、何のことはない。薬さえあれば普通に生活することができ、様々な行為が出来る能力(権利)があるのだ。それなのに健康でないと言えることは、少なくとも私は言えない。
生まれてきた子どもの誰もが、自分の性質を受け止められるとは限らないが、それでもそれを受け止めるのは子ども自身なのであり、親の価値観で決められるものではない。それを勝手に子どもは同意してくれるだろうと決めつけ、遺伝子操作を実施しようとしている親の行為はもはや子どもに対しての権利とは認めがたい、遺伝子増強に腐心する親の過干渉とも受け止められる。
そして疾患、障害のない価値のあるものだけを生かすという考えは、家畜の品種改良と同じように、自分たちの価値観で遺伝子操作を施し優れた人を造り出そうとしてきた過去の優生学的思想(23)を彷彿させてしまう。

(2)「生命は贈りもの」であるという思想の喪失

子どもは両親の愛の結晶ともいうが、人の誕生においては、神や自然のように誰の手にも届かない存在によって生み出され、託されたという「贈りもの」と理解されるべきだろう。それは、子どもをそのあるがままに受け止めるということであり、子どもが自然に受けとった能力に決して手を加えることはできない。神学者ウィリアム・F・メイの「招かれざるものへの寛大さ」の言葉が意味しているのは、支配や制御といった服従の衝動を抑制し、贈られものとしての生という感覚を呼び覚ますような心持ちである(24)。だから、子どもは決して親の所有物ではないことを認識しておかなければならない。
しかし生殖技術の発展において、もはや私たちは生命を創造、操作出来るという錯覚に陥りがちになってしまう。試験管で人為的に卵子と精子を受精させ希望にそった子どもを造り出そうとすることで、尊ぶべき生命の萌芽を生み出すという認識が持てず、ただ将来的に人になる権利がある細胞を造っているという実感が得られるにすぎなくなる。その中では、もはや生命は与えられたもので不可侵の権利(25)をもつ存在だという前提が崩壊し、私たちの道徳的理性が麻痺してしまう為、胚を天秤にかけ「生きるに値する」、「値しない(欠陥品)」との選別をしてしまう。そして自らが選って造った子どもであるがため、どんな人生を歩ませようが自分たちの権利だと思い込んでしまうことも自然なことかもしれない。遺伝子操作による「デザイナー・ベビー」の創出は自惚れの究極的な表現であり、贈られものとしての生への畏敬が失われていることの現われである(26)。

4、遺伝子操作によって親子の関係が困難になる可能性

民主主義社会においては皆、自分たちの人生計画を「自己の能力に沿ってできる限り」追求する権利を持っている。失敗するかもしれない人生だが、その人生において自分にとって出来るだけのこと精一杯をしてみたい。しかし、こうした自由を追求することも、遺伝的に条件付けられた能力や素質や特徴によって限界づけられることも確かなことである。そのため、親の価値観によって「デザイナー・ベビー」を造り出し、子どもの人生をプログラミングしてしまうことは決して正しいとは言えない。
ハーバーマスが言うには、「望ましい特性や素質を優生学的にプログラムすることが道徳的に問題性を持つとすれば、それは当該の人格を特定の人生設計へと限定し、それによって少なくとも、独自の人生を選ぶ自由を制限することである。もちろん誕生の前に両親の配慮のおかげで特定の能力に優れた素質を持たされた子供は、成長する過程でこの両親の思いに感謝するだろうし、親の思いに応えようとするかもしれない。もし本人がこの親の期待を本心で受け入れ、自分の目標としてやる気へと変えることができれば、本質的な違いはないことになる。また、このように親の意図を「受け入れて自分の意図とした」場合には、自己の肉体的実存からの疎隔感といった影響や、それに対応した「独自の」人生を歩むための自由の制限は生じないことになる。反面、自分の意図と[自分にプログラムした]親の意図とが調和することが保証されると確実に言えない限りは不協和音のケースが生じる可能性がある。」という。他者からのプログラムされていない場合であれば、親に思いをぶつけることによって相互理解の機会を得不協和音を解消することが可能だが、「遺伝子工学的によってゲノムに刻印された意図に対しては、それに喧嘩したところで、返答はなく解決を得られない。遺伝子工学的な固定化をもたらせた意図に対して喧嘩をしたくとも、自然に生まれた人格のように、自分のライフストーリーを自己のものとして認め、自らの才能(あるいは障害)に対して、自己理解をし、自己の与えられた意義に答えを見出すことが出来ない(27)。」と。
生まれる前の両親の野心というようなものが子どもの未来を縛りつけることになってしまう。これは教育や訓練や食生活による人間の改良という昔からの方法とは根本的に違う。たとえば、胎教といってお腹にいる間にクラシック音楽や英語を聴かせたりして涙ぐましい努力がいろいろされてが、これらはおよそプリミティブでナイーブな話だと思われる。
それとは根本的に次元の違う話になってくる。「プログラマー(親)とプログラミングされた子どもとの関係は、コミュニケーション行為の相互性という条件を外れている」とハーバマースは彼特有の概念で遺伝子操作を批判している。数多の将来が待ち構えているのに両親から「あなたは有名なスポーツ選手の遺伝子を組み込んだから、将来はスポーツ選手になりなさいよ」なんていう話を聞かされレールを敷かれる人生は、自分のライフストーリーを形成しているということにはならず、もはや両親の人生を押しつけ、親の自己肯定を代わりに子どもにさせてしまっていることになる。

第 3 章 結論

1、本来の親の役割

私たち一人ひとりが人格をもって自分なりの人生を送っているのと同じように、自分と子どもは違う。各人が独自の要求に依拠する人生の生き方の起動者であるのだ。そこに、子どもの利害を察知しての代弁だとか親の責任だとかの理由のこじつけで、子どもが構築してゆくライフストーリーに介入する事はしてはいけない。子どもをありのままに受け入れ、道を外しかけたら諭し、見守っていくことが親の役割である。
「人間の創発的な自由は、おのれの始まり(出生)が『他人の意のままを免れている』ことの上に成り立つ。子どもが親を選べないのと同時に親も子どもを選べない。これがいま私たちの人生ゲームの基本ルールになっている。ハーバーマスは人間社会の新しい可能性は、思い通りにならない生誕の自然性によって支えられているとしている(28)。彼は哲学者
ハンナ・アーレント29の「natality=誕生すること」という概念のもとに、新生児が生まれて、人々は新しい人生を切り開いていく、これが人間の歴史を更新する源になっていっているという考えを受けて、「予期せざるものへの期待」(Erwartung des Unerwarten)と表現し、親はもちろん、祖父母も親戚も、生まれたばかりの赤ん坊を好奇心にあふれた眼差しで、その子の将来への期待をこめて見つめる。そんな新生児に対する白紙の希望(unbestimmte Hoffnung)において、未来に対する過去の支配(両親の思い通りにするという束縛性)は打ち砕かれなければならないという。
このことから、子どもは未知の可能性を秘めているのに親が勝手に子どもの生まれ持つ能力を杞憂し、子どもを信じずに科学の力に頼り希望どおりの人生を歩ませることは如何なものかと思う。大切なのは、子どもがどんなに完璧で優秀な能力を持っているかではない。子どもが生まれ持ったその性質を受けとめ、不完全な部分を補おうと努力し、試行錯誤しながら一人ひとりに与えられたライフストーリーを構成していく、そんな子どもの姿を親は一番の理解者として見守り支えていくのが役割なのではないか。

2、ありのままに受け入れることの重要性

私の身体というのは一つしかないから、どんな環境に生まれ、何を備え持ち、どんな人に囲まれているかは私だけのものであって、そこに私という独自性の存在がある。それ故、当然他者が交代することはできない。またこの私という存在が今に至るまで、どのような経験が積み重なって今の私の配置を形成したのか、その積み重ねがライフストーリーである。そしてその唯一の私という存在からものを見て考え、ストーリーを作ってきたのが自分自身であり、先にも述べたように唯一無二の存在である。だからこそ、その自らを否定することは出来ないし、むしろどんなに気に入らなくても自分自身の存在を受け入れ肯定していくことから人生は始まる。たとえ病気や短所があっても、それをマイナスと捉えず、そこから何かを学び取ろうとすることが大切である。どんな体験にも、それを体験した人間にしか分からない何かがあり、その積み重ねが自分を成長させ自分のライフストーリーを形成する。したがって、人間に完全性を求めるような価値観は一掃しなければならない。人間らしい生き方を送るには、生まれ持った性質故の短所、他者への嫉妬からくる悔しさやそれを昇華させる向上心も必要で、それらが存在を生かすことになる。
自分たちがたとえ社会の無限性と自分のもって生まれた有限の能力の間で葛藤を覚え、悔しい思いをしたとしても、自分のありのままの姿を受け入れなければならない。そしてそれらの思いを昇華して、自分だけのライフストーリーを形成していくべきである。自分が満足のいく人生が送れるのであればその人生は価値のあるものになる(自らのライフストーリーに他人の評価を求める必要はない。)遺伝子操作によって能力を与えられ、あらかじめ決められた道を歩む人生よりも、自分の短所と向き合い、それを埋め合わせるために必死で努力をしたり、考え悩みながら自らの人生を精一杯歩むことは、あらかじめレールの敷かれた人生を歩むことよりも困難である。しかし、それは他者にプログラムされた生き方よりきっと何倍もの充実感を得られ、自分自身を大きく成長させることができるはずだ。

3 人間の「弱み」の価値

デザイナー・ベビー技術における能力の増強志向は、「より健康で、強く、美しくありたい」という人間の欲望を駆り立てているものである。しかし、人生を振り返ってみると、まずは母親のケアなしには一日たりとも生き延びれない無力な赤ん坊として私たちはこの世に生み落される。その時点で、優秀な才能があり生まれながらにして障害を持っていない健常者であっても、人生の途中でいつ何時事故に遭って障害をもつかもしれない。運よくそれを免れたにしても、老年期には体や頭の動きが不自由になり、やがて終末期にはベッドに縛りつけられ、他人の世話になって、この世を去っていく。こういう人生の実相を見据えるなら、人間は必ずしもどこかで他者に依存する存在でもあるという「弱さ」を持っている。その「弱さ」というものが人間の相互支援・連帯という人間の文化を本質的に育んできた。私たちの心と身体(からだ)は極めて傷つきやすく壊れやすいものであるが、これが人生を味わい深く奥行きのあるものにしているのではないか。人間が弱くなければ文学も芸術も成り立たない。ならば、弱さを根本的に克服しようとする増強的志向には、かえって危ういものがある。能力増強への熱中は生を貧弱なものにして、連帯社会を危うくするリスクをはらんでいる。技術革新の一歩一歩がそうした人間学的・文明論的な問いを投げかけているのではないか。同時に、遺伝子操作というドーピングに頼らずに、思い通りにいかない有限の能力とこの不条理な社会で、どのようにして自己を確立し、それぞれが与えられた人生を価値あるものに変えることができるか、そして親は自分たちと違う子どもをありのままに受け入れることができるのか、それらの問いをこのデザイナー・ベビーの問題は投げかけている。

最後に作者不明だが、こんなことばがあるので記して終わりたい。
Life consists not in holding good cards but in playing those you hold well.
人生は良いカードを持つことではない。持ち札のなかで最高のプレーをすること、それが人生の醍醐味である。

参考図書・参考 URL

・『デザイナー・ベビー 生殖技術はどこまで行くのか』(ロジャー・ゴスデン著、堤理華訳/2002/原書房)
・『すばらしい人間部品産業』(A・キンブレル著、福岡伸一訳/2011/講談社)
・『完全な人間目指さなくてもよい理由 遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』(マイケル・J・サンデル著、林芳紀、伊吹友秀訳/2010/ナカニシヤ出版)・『人間の将来とバイオエシックス』(ユルゲン・ハーバーマス著、三島憲一訳/2004/法政大学出版局)
・『はじめて出会う生命倫理』(玉井真理子、大谷いづみ編/2011/有斐閣)
・生命の設計と新優生学 http://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/eth/mspaper/paper16.html
・生命倫理学資料 http://www3.kmu.ac.jp/legalmed/ethics/index.html
・南山大学社会倫理研究所 第 6 回懇話会オンライン INDEX http://www.ic.nanzan-u.ac.jp/ISE/japanese/database/discourse/2004matsuda.html
・ナチスの優生学と人種民族差別:帝国人種優生学研究センター http://www.geocities.jp/torikai007/1939/racism.html

1 1997 年アメリカ映画。監督・脚本はアンドリュー・ニコル。
2 妊娠子宮に長い注射針に似た針を刺して羊水を吸引し、得られた羊水中の物質や羊水中の胎児細胞をもとに、染色体や遺伝子異常の有無を調べる。
3 妊婦の血液のタンパク質濃度を測定する検査。
4 体細胞の21番染色体が1本余分に存在し、計3本(トリソミー症)持つことによって発症する、先天性の疾患群。症状の身体的特徴として「顔が平たい」「目がつりあがってる」「目と目の間が開いている」「長い舌」「太く短い首」「太く短い指」全身の筋力の低下」「心臓の異常」「食道閉鎖症」など。内臓にも異常が起こる例が多い。
5 胎児ができる初期の段階で形成される脳や脊椎のもととなる神経管とよばれる部分がうまく形成されず、きちんとした管の形にならないことに起因して起こる障害。遺伝などを含めた多くの要因が複合して発症する。二分脊椎では、生まれたときに、腰部の中央に腫瘤があるものが最も多く、重篤な場合には下肢の麻痺を伴うものもある。また、脳に腫瘤や脳の発育ができていない無脳症などもある。
6 本来、母体保護法には胎児条項(胎児の障害を理由とした中絶をみとめる規定)はないが、ダウン症など胎児の障害ゆえの中絶は「身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれ」という条文を拡大解釈して実施されている。
7 母体保護法2条2項この法律で人工妊娠中絶とは、胎児が、母体外において、生命を保持することのできない時期に、人工的に、胎児及びその付属物を母体外に排出することをいう。「胎児が、母体外において生命を保持することのできない時期」の基準は、通常妊娠22週未満であること。この時期を過ぎると、「母体外でも生命を保持することができる」とされ胎児は新生児扱いになり、刑法212-216条堕胎罪が適用される。
8 着床前診断(Preimplantation Genetic Diagnosis)受精卵が8細胞期の段階で、その遺伝子や染色体を解析し、遺伝病や、染色体異常等を発見する。
9 不妊治療のひとつ。1978年、体外受精によってルイーズ・ブラウン(世界初の試験管ベビー)が誕生。
10 胚性幹細胞(Embryonic stem cells)受精卵初期段階である胚盤胞期の胚の一部に属する内部細胞塊より作られる幹細胞細胞株のこと。生体外にて、理論上すべての組織に分化する分化多能性を保ちつつ、ほぼ無限に増殖させることができるため、再生医療への応用で注目されている。
11 人間を形作るために一人一人に設定された情報のこと。この情報を全て解読して人の遺伝情報を明らかにし、医学では遺伝子治療などさまざまな分野で役立てようとする国際計画。
12 エンハンスメント(Human Enhancement)は、先端生命科学技術を、治療目的を超えて、「より望ましい子ども、優れたパフォーマンス、不死の身体、幸せな魂といったものに対する深くてなじみある人間 的欲望を満たす」ために用いること(Presidential Council 2004-2005)であり、また、「健康の回復と維持という目的を超えて、能力や性質の「改善」を目指して人間の身体に医学的に介入するということ」(松田 2006)であるといった定義が与えらる。またエンハンスメントは、日本語で「能力増強」と訳したり、「増強的介入」と訳したりする。『エンハンスメント論と先端生命科学の現在・近未来-欧米圏におけるエンハンスメント論争の構図-』土屋淳/2007/『市民科学』第10号 l.4-10 参照 http://archives.shiminkagaku.org/archives/file/csij-journal%20010%20tsuchiya.pdf
13 『すばらしい人間部品産業』(A・キンブレル著、福岡伸一訳/2011/講談社)p118-134 参照
14 http://www.globe-walkers.com/ohno/article/designerbaby.htm 参照
15 クローン人間の製造は禁止されているものの、クローン人間の代わりにデザイナー・ベビーを用意し、大切な子どもが病気や怪我をしたとき、病状の治療に活用することも考えられる。例として一つは白血病の5歳の男児の治療に必要な臍帯血を確保するために、両親が体外受精をし、息子と白血球の型が一致する受精卵を子宮に戻し、無事女児を出産したという。もう一つの例は、アメリカ、コロラド州デンバーで起こった。骨髄の生成ができない遺伝病であるファンコー二貧血症を患う女の子を助けるために、その病気を引き起こす遺伝子変異のない胚を選び、そこから生まれた赤ちゃんのへその緒から健康な幹細胞を採って移植した。これらのニュースは世界中の耳目を集め、遺伝子の改変技術への期待が大きく高まっている。「私の中のあなた」もデザイナー・ベビーの医学的利用を題材にしている。
16 世界でいち早く遺伝子治療の臨床研究が始まった米国では、1985年に遺伝子治療のガイドラインが制定され、遺伝子治療の手続きが定められている。
日本では平成6年医療機関を対象とした「遺伝子治療臨床研究に関する指針」(厚生大臣告示)と大学を対象とした「大学等における遺伝子治療臨床研究に関するガイドライン」(文部大臣告示)とがあり、現在、遺伝子治療は臨床研究として末期ガンの患者などに対して、ほかに治療法がない場合のみに限定して行われている。骨子の概要は次の通り。1.重篤な遺伝性疾患、がん、後天性免疫不全症候群その他の生命を脅かす疾患又は身体の機能を著しく損なう疾患であること。2.遺伝子治療臨床研究による治療効果が、現在可能な他の方法と比較して優れていることが十分に予測されるものであること。3.被験者にとって遺伝子治療臨床研究により得られる利益が、不利益を上回ることが十分予測されるものであること。http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/seisaku/kojin/dl/161228idennsi.pdf
17 教育権は自然権の一部であり、子どもの自己教育において、知識、経験等の不足している要素を補うために子供たちが自己教育の多くを、大人たちに委任するという形で存在し、就学以前の子どもにどのような教育を行うかはすべて親に任されている。
18 『人間の将来とバイオエシックス』(ユルゲン・ハーバーマス著、三島憲一訳/2004/法政大)p83 参照
19 『デザイナー・ベビー生殖技術はどこまで行くのか』(ロジャー・ゴスデン著、堤理華 訳/2002/原書房)79 貢参照
20 『完全な人間目指さなくてもよい理由:遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』(マイケル・J・サンデル著、林芳紀、伊吹友秀訳/2010/ナカニシヤ出版)p49-66 参照
21 『デザイナー・ベビー 生殖技術はどこまで行くのか』(ロジャー・ゴスデン著、堤理華訳/2002/原書房)p40 参照
22 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%82%A 参照
23「生物の遺伝構造を改良する事で人類の進歩を促そうとする科学的社会改良運動」と一般に定義される。背景には著名な生物学者で進化論・自然選択説を発見したダーウィン、及び人間社会においても生物淘汰による進歩を促すべきとする社会ダーウィニズムに基づく。その後、優生思想はナチスの「生きるに値しない生命の抹消」(vernichtung lebensunwerten lebens) 計画は、ホロコースト(holocaust)を通してユダヤ人、ジプシー、障害者、同性愛者などを含む数百万の「不適格」なヨーロッパ人を組織的に殺害する形となった。
24 『完全な人間目指さなくてもよい理由:遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』(マイケル・J・サンデル著、林芳紀、伊吹友秀訳/2010/ナカニシヤ出版)p50 参照
25 教皇庁教理省『生命のはじまりに関する』教書』I・1(op.cit,79)
26 『完全な人間目指さなくてもよい理由:遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』p134
27 『人間の将来とバイオエシックス』p103-106 参照
28 『人間の将来とバイオエシックス』p98 参照-p99 参照
29 ハンナ・アーレント(Hannah Arendt 1906-1975)ドイツ出身のアメリカ合衆国の哲学者、思想家。