理想の国民―アリストテレスをヒントに 同志社大学 能村晋平

はじめに

現在、我が国を取り巻く環境はますます複雑になっている。記憶に新しい尖閣諸島の領海侵犯の際、巷には「国防」に対する様々な意見が飛び交った。また、憲法9条そのものに対しての見直しの声も上がっており、軍隊を持つべきであるとか、核兵器を持つべきといった意見も出ており、十人十色の国防論が表れている。その一方で、政治に全く関心のない人やあまりに短絡的な感情論、保身のみを考えた主張も多くあるのは事実といえる。
また、国防に関する最終的な決議を下すのは政治家である。いまの日本は民主主義国家であるから、原則、国民の政治参加は権利であり義務である。とするならば、国家の状態は国民の能力に依っているとも考えられるであろう。では、国家をよき状態にせしめる「国民」とはどのようなものなのであろうか。古代ギリシアの哲学者、アリストテレスをヒントにして考察を進めていきたい。

国家(ポリス)の形成

アリストテレスの有名な言葉に、「人間はポリス的動物である」というのがある。ポリスとは自由市民によって構成される国家、市民共同体のことであり、広く国家一般を示すものとされている。この言葉は、人間がポリスを形成するのは自然本性的なものであるというアリストテレスの考えを端的に示しているといえる。人間の原初的な結合体「家」であり、それらが集まり「村」ができる。そして最終的に、いくつかの村が集まって一つの完全な自足共同体ができる場合、「国家」となるのである。アリストテレスは、人間にはこのように共同体への初動となるものが万人に宿っていると考えた。
アリストテレスは、国家は同盟や民族、個人の集合体とも異なっていると考える。国家は一つの道徳的目標を持っているという点で同盟とは異なり、単なる相互防衛を目的とするものではない。また民族は種族のきずなによって結ばれた不定の大きさを持つ集合体であるのに対し、国家は限られた一定の大きさの統一体である。さらに、国家は個人の単なる集合体ではなく、一つの国制と法の下にある共同体なのである。

国家の役割

それでは、「国家」の役割とは果たしてなんであるかを考えていきたい。アリストテレスは著書、『二コマコス倫理学』の冒頭で「いかなる技術、いかなる研究も、同じくまた、いかなる実践も選択も、ことごとく何らかの善(アガトン)を希求していると考えられる」(1)と述べているが、この論にあてはめて考えると国家の役割は何らかの善を求めるところにあると考えることができる。
人間は、国家を構成することによって自己の生存を安全にする。「人間は完成されればおよそ動物のうちでも最善のものとしてあるけれども、しかしそれだけにまた、法律や法的秩序から離れてしまうと、あらゆるもののうち最悪者となるからである」(2)と述べているところからも、国家の役割が自己の生存の安全を保つという機能が見て取れる。

アリストテレスの考えではこのように自己の生存の安全を保つために、国家においては治者と被治者という対構造が自然的に生み出される。
アリストテレスによると、この対構造は、男と女のように、相手がいなくては存在しえないもの同士が合わさってできる一対であると考えられる。治者・被治者は「その知力によって先を見ることのできる者は、生まれつきの治者であり、生まれながらにして人の主となる者なのである。これに対して肉体を使って労働する力をもっている(だけ)の者は、被治者となり、また従者(奴隷)となるのが自然なのである。したがって主従相互の利益は同じということになる」(3)のである。ここでいわれている「主従相互の利益」はお互いの生存の安全である。これには若干の違和感を覚えるであろうが、アリストテレスは典型的な古代ギリシア人であることを念頭に入れておく必要がある。当時の考えでは一般に、奴隷には倫理的・政治的活動に携わるだけの公共的理性が備わっていないと考えられていたのである。いずれにしてもこれで、国家の基本的な役割が、自己の存在を安全にすることであり、そのための構造として治者・被治者の対構造が存在することが明らかになった。

国家の究極目的

国家の基本的な役割が存在の安全保障であると分かったところで、国家の究極目的を考えていきたい。国家の究極目的として、アリストテレスは「よき生活」を送れるようにすることであると考える。「最善の生活とは、個別的には個人の場合にも、公共的には国家の場合にも、徳に即した行ないをなすに足るだけの手段が用意されている徳、そういう徳をともなった生活」(4)である。ここで言われている「手段」は外部的な善であり、この善を用意するのが国家の使命といえるのではないだろうか。
我々構成員はこの「よく生きる」という究極目標を忘れないように、国政に参入するべきである。なお、アリストテレスにおいて、「幸福」は「善」という言葉に包括されており、したがって「よく生きる」ことは幸福といえるのである(5)。

市民の定義

では次に、国家を構成する「市民」とは何か、その定義を確認したい。ここで注意すべき点は、日本における「市民」という言葉はそもそもマルクス用語であり、アリストテレスにおける「市民」とは少しニュアンスが異なるということである。
アリストテレスの定義では、「市民」は裁判と統治への参加者を示し、端的にいえば「国政審議と裁判の役職にあずかることが許されている者は、すでにそれだけでその市民国家の市民」(6)なのである。すなわち、支配と判決に関わる人々を市民と呼ぶことができるのである。また、「「判決」とは、法廷裁判において一定の役職を務めうる能力を意味し、「支配」とは、立法、行政、その他の国家の運営に関して一定の職務を務めうる能力を意味している。これら二つのことについて責任をとりうる能力をもつことだけが市民の資格である」(7)とアリストテレスは考えている。また、公共の福利を顧みないような人々も、市民からは外される。なお、このような無条件的な「市民」からは除外されるが、国家の中で何らかの役割を負っている人(奴隷や未成年者など)や、地理的に国家の中に居住している人は「国民」として包括されるといえるだろう。

このようなアリストテレスの市民観は、出自や身分といった条件ではなく、機能的な面から市民を定義している点からある種の革新的な市民観ということができるのではないか。この定義に即してみると、現在の日本にも機能的な「市民」―すなわち政治と裁判に関わり、それに責任を負うことが出来る者―から除外されてしかるべき人々がいるようにも考えられる。
また、アリストテレスの市民概念のもう一つの特徴は、政治支配への権力を持つという点で市民は平等であるというところである。「だから、アリストテレスの理想国家においては、すべての市民が平等に支配被支配の地位につかねばならない。これはすべての人が交代に役職に就くことにより成就される」(8)といえる。これについては後の「市民の徳」についての考察において考えていきたい。

市民の役割

以上、国家の目的についてみてきたが、最後に国家の構成員である市民について、その役割を考察したい。市民の定義は前述したので、ここでは省くものとする。アリストテレスによれば、市民は船員と同じようなものである。めいめいのできる仕事(櫓を漕ぐことや、舵を取ること、それを助けること等)の範囲は違っているが、全体として見てみるとその目的は航海の安全なのである。船員が航海の安全を図るのと同じく、市民は国家の保全をその仕事とする。しかし今日では「国家の保全」にあまりにも無関心な人々が多いのが現状ではないか。例えそこまではいかなくとも、国家のことよりも個人の財産や生活をより豊かにすることのほうに関心が向く傾向にあるのではないか。これは大いに問題だと思われる。
アリストテレスも国制についての考察の内で、支配者のみの利益を目指した国制を「正しくない」国制であると述べている。その中には「自分自身の利益を目指してなされる、多数者の支配」という考えがある。これは「民主制」と呼ばれるもので「普遍的な利益を目指してなされる、多数者の支配(中間の国制)」が崩れたものであるという(9)。「中間の国制」の実現のためには、すべての人々が有徳である必要性がある。次に「市民の徳」について考えていきたい。

市民の徳

市民としての徳とはいかなるものであるのかを見ていくにあたって、注意しておきたいのは、「市民」としてのりっぱさ(徳)と、「よき人」としてのりっぱさ(徳)は同一ではないということである。なお、よき人としての徳には知恵、勇気、節制、正義などが属している。「市民としてはりっぱであっても、人が人としてりっぱであるためのりっぱさ(徳)をもっていないことがありうることは明らかである」(10)と述べられるように、立派な市民が立派な人であるということは断定されえないのである。理想の国家においては市民としての徳は最低条件として求められるが、その理想国家においてすら、人が人として立派であるための徳を全ての人が持っていることは要求されえない。というのも人間には賢愚美醜などの差異を持ち、同質ではないからである。だから一般市民は、「とにかく各人は自分の仕事だけはりっぱにやってもらわなければならない」(11)のである。すなわち、自分の分を守り、仕事をよくなし、賢明な人に従う克己心を持たなければならないのである。このような「分を守る」という思想はプラトンの国家論と類似しており、プラトンの最上国家のことが考えられているともいえる。
前述したとおり、市民は政治支配において平等である。そのため、極めつけのよい市民は「治者と被治者のよさ(徳)は違っているけれども、しかしよき市民は、治められることも治めることも心得ており、両方とも出来るのでなければならない」(12)のであり、また「自由市民の統治を能動受動の両方にわたって心得ていることが、市民の徳というものなのである」(13)とアリストテレスは考える。極めつけの市民の徳は、治め治められる双方にかかる徳であると言えるのである。

おわりに

国家は人間の本性に基づき構成されるものであり、それは我々の存在の安全を保障し、幸福な生活(よく生きる)へと導くものである。アリストテレスも「戦争への配慮もその究極目的のための手段にすぎないということは明らかである」(14)と述べているように、国家は守られるべきでものなのである。
また、国民の役割はその国家の保全である。そのために一般市民は自分の分を守り、仕事をよくなし、賢明な人に従う克己心を持った、市民として立派でなくてはならない。さらに国家の要職にある者は、その市民の徳の上に人間的な徳を持つことが望まれる。逆に言えば、各々は自らの分を弁えて、公共の福利のために生活を送るべきでなのである。

アリストテレスが奴隷制を擁護していたという批判がよくあるが、アリストテレスの場合は擁護ではなく、単に一般的なことと考えていたに過ぎない。これは当時の典型的考え方であった。また、農夫や商人、職工人を市民の生活(市民はそのような手仕事、雑事から離れている)と相容れないとしたことも、当時の思想では一般的なものであった。近代思想の基本的人権の概念が欠けているからといって、アリストテレスの思想を軽んずべきではない。
確かに「アリストテレスは当時の典型的なギリシア人がもっていた偏見を共有しており、また今日われわれが進歩として理解しているところの観念を欠如している」(15)といえるが、現在ではアリストテレスの言うような「市民」の定義にあたる人が少ないように思う。多くは「国民」として、政治に責任を持つこともなく生きているのではないか。市民とは日常の雑事から離れ、それゆえ理性的な者である。日常生活を捨てることはできないにしろ、思慮深く振る舞うことは全く不可能ではないであろう。
また、裁判員制度の実施により、我々が直に判決に携わる可能性も増してきている。いま、日本国民は、「市民」にならなければならない。従来のマルクス用語としての「市民」ではなく、アリストテレス的な「市民」である。
私の思う「理想の国民」は「市民」を目指して日々を送る者である。また「市民」は「理想の市民(極めつけのよき市民)」を目指さねばならないのではないだろうか。

(1)アリストテレス、高田三郎訳(2009年)『ニコマコス倫理学(上)』岩波文庫、17頁。
(2)アリストテレス、田中美知太郎、北嶋美雪、尼崎徳一、松居正俊、津村寛二訳(2009年)『政治学』中興クラシックス、19頁。
(3)同上、13頁。
(4)同上、298頁。
(5)出隆(1972年)『アリストテレス哲学入門』、岩波書店、265頁参照。(6)同上27頁。
(7)岩田靖夫(2010年)『アリストテレスの政治思想』、岩波書店、12頁。
(8)同上、14頁。
(9)同上、17頁参照。
(10)アリストテレス、前掲書、39頁。
(11)同上、39頁。
(12)同上、43頁。
(13)同上、43頁。
(14)同上、305頁。
(15)G.E.R.ロイド、川田殖訳(1973年)『アリストテレス』みすず書房、234頁。