主権国家と安全保障 同志社大学法学部 田上慧
問題提起
私は「日本は日米安全保障条約を改正して自国のみで安全保障対策を取るべきである」という論題に対して賛成の立場をとり立論を行います。私は安全保障問題について近代における主権国家のとるべき態度の面から立論を行います。国家が生存できなければ人件も福祉もありません。しかし、外部から与えられる暴力に対して暴力で抗してしまえばそれはとても文明国とは言えません。文明国が行使する暴力のことを武力といいますが、武力とは法によって正当化された暴力のことです。同じものを紙一重で正当化しているものが「法」です。その根源は憲法にあり、真の意味での憲法とは「社会全体を形成する秩序」のことで、単なる条文の字句だけを指すのではありません。文明国の憲法とは国家の安全を保証する憲法であり、その意味では文明国の憲法はすべて平和憲法であると言えます。現行の日本国憲法には「戦争放棄」と「絶対平和主義」が述べられています。しかし、本来の意味で平和主義を唱えるということは、「軍事のことを考えないようにする」ということではないはずです。その逆に、誰もが戦争など嫌に決まっているのだから、なおさら安全保障、特に軍事に関しては真剣に考えようというのが、国家の安全を保証するためにある文明国の憲法の役割のはずです。
憲法から見た安全保障ところが、現行の日本国憲法の条文を踏まえて安全保障を考えれば必ず矛盾に突き当たることになります。ここでは最も有名な憲法9条のみを取り上げますが、これを条文通りに正確に要約すると、第一項は「戦争などのあらゆる争いはしません」、第二項は「戦力は持ちません。戦う権利は認めません」ということになります。では、自分が戦わないときに、他の国が攻めてきたらどうなるのでしょうか?答えは「アメリカが守ってくれる」です。この答えは、戦後の占領下でも今でも根本的には変わりません。しかも、9条の条文を直接読み解くだけでは決してこの答えはでてこないのです。憲法が国家の社会秩序を規定するという考えからすれば、文明国家として、主権国家として、日本は明らかにいびつであると言わざるを得ません。普通の国の憲法は、平時ではなく有事も想定しています。日本国憲法にはそれがありません。有事には政府や憲法体制そのものが破綻するということもありえるのです。有事とは戦争・事変・天災のことを指します。現行の日本国憲法は、米軍がいる限りいかなる有事のことも考えなくても良いという思考で出来上がっているのです。
いびつな日米関係私が本論で主張したいのは、そもそも自国のみで安全保障ができていない時点で主権国家として破綻しているのではないかということです。日米安全保障条約はアメリカに日本を守ってもらう代わりに、在日米軍基地を維持するための資金を提供するという、一見すれば対等な関係を結んでいます。しかし、日米安全保障条約6条を根拠とする日米地位協定によれば、日本ンは米軍基地内で発生した刑事事件を裁くことができないのです。他国の治外法権を認める国家が、果たして独立した主権を保持していると言えるのでしょうか?米軍基地はすでにあるものであり、これからもあり続けるものだと私たちはみな思い込んでいます
が、米国は90年代にフィリピンのクラーク空軍基地とスービック海軍基地から撤退をしました。2008年には韓国内の基地を三分の一に縮小し、ソウル近郊の龍山基地を返還することに合意しています。いずれも両国民からの強い抗議を承けたものです。米国防総省は沖縄の海兵隊基地については、県外移転も問題外であるほどに軍事的重要性があると言い、日本のメディアはそれを鵜呑みにしています。しかし、その言い分とアメリカが海東アジア最大の軍事拠点と北朝鮮と国境を接する国の基地を縮小しているという事実のあいだにどういう整合性があるのでしょうか。実は、対等な日米関係は米国自身も望んでいることです。日本が米国と対等になるということは、日本がより多くの役割を担い、防衛にお金をかけ、国際協力に関心を持つということに他なりません。ところが、現在の状況を見れば日本のほうが米国に対して依存しきっているのです。日本の首脳陣は米国の反応を極度に恐れており、どちらの国の国益を考慮しているのか理解に苦しみます。
日本国憲法はその成立の歴史を見れば明らかである通り、戦後の占領軍の存在と切り離せません。占領軍が日本を統治するための一時的な方便であって、本来は憲法でも何でもない占領基本法だ、との説があります。いろいろな判例で最高裁もこの立場をとっています。「1953年4月28日のサンフランシスコ講和条約が発行するまでは占領基本法だったのが、日本人が独立しても憲法として扱ったのでそこではじめて日本国憲法が日本の憲法になったという立場です。占領軍の目的は、日本に二度と戦争を起こさせないようにすることにありました。我々は戦争をしたくないからしないのではなく、そもそもできないようになっていることを忘れてはいけません。
戦力を持つことができないのならば、平和主義の日本がとるべきなのは非武装中立の理念であるという見解があります。しかし、中立というのは「両方の味方」ではなく、「両方の敵」という意味です。永世中立国として有名なスイスなどは、領空を通過する戦闘機は誰が相手であれ撃墜します。中立を守るには「あいつに手を出したら損だ」と敵・味方に認識させる実力が必要なのです。外交能力だけで中立を保つなど、ほとんど不可能に近いのです。そして、ベトナム戦争やイラク戦争の際の日本の介入の仕方から考えて、現時点において日本が中立国だと訴えてもそれが国際社会で受け入れられる可能性は極めて低いでしょう。
足踏みし続ける日本
以上憲法をはじめとする日本の安全保障の理念の不自然さについて述べてきました。これらの議論は机上の空論ではありません。あらゆる具体的な方策は根本的な指針なしにはその意味をなしません。そもそも国家としてどのようにありたいのかわかっていなければ、ただ足踏みをする他はないのです。ただ単に本質を見失わせ、問題を混乱させるためのスキームとして憲法や日米安全保障条約が存在しているのならば、大いに改正すべきなのです。戦後憲法について根本的な議論が60年以上に渡ってできなかったのは、日本が米国の実質的な属国であるということを認めてこなかった歴史であるといえます。米国の世界戦略に加担することが日本の国益のためになるという親米派の言い分は、近年のアメリカの政治・経済の状況をかんがみてももはや崩れてきているのです。一般論として言えば、どのような現状にも一定の理屈があるので、挙証責任を持つほうが圧倒的に苦しい立場です。しかし、日本の将来、そして国際社会に対する影響を考えれば、日本が主権国家としてきちんと機能することは極めて価値のあることだと考えます。以上で私の立論を終わります。