新型コロナの心理的影響と学校教育 黒田 基



新型コロナの心理的影響と学校教育

黒田 基

はじめに
 2020年ほど予想していた一年と現実が大きく乖離した一年はなかったであろう。この年は2013年に決定した東京オリンピック・パラリンピックの開催、憲法改正に向けての国民投票など、すでに一年が始まる前から多くのイベントが話題となっていた。しかし、現実はどのイベントも開催されることはなかった。その前年末である2019年12月、中華人民共和国の武漢から発生したとされる新型コロナウイルス感染症(以下、新型コロナ)が世界中で猛威を振るい、わずか1年で世界の状況を一変させたからだ。新型コロナの流行は、中世ヨーロッパでペストが流行したときのように死者を多く出したことが社会的に大きな影響を及ぼすことよりも、各国の政策が(もちろんウイルス自体の影響も無視できないが)、現代社会に大きな影響を及ぼした。我が国でも、いわゆる三密を避けたソーシャルディスタンスや自粛の要請などの感染症の対策が行われている。確かにこのような感染症の対策は一定の効果があるだろう。しかしながらこうした人々の行動を制限した一連の対策は、人々の心理にも影響を及ぼしている可能性が大いにある。つまり、物理的に人との距離を空けるソーシャルディスタンスによって、人々の心の中にも人との距離が置かれたり、外に出ることを制限した自粛によって人々の心の中にも新しいものに触れる意識そのものを失わせていたりするのではないか、ということだ。そしてそれは、学問の本質である好奇心を我々から取り除いてしまっているのではないか。
 本稿では新型コロナが与えた社会的影響のうち、心理的影響に焦点を当てる。そしてそれらの影響が学校教育においてどのように表れているかについて論じる。
1.新型コロナの社会的影響
(1)我が国の新型コロナへの対応
我が国で新型コロナの感染者が初めて確認されたのは2020年1月15日であったとされる。3月に起きたダイアモンドプリンス号でのクラスターなども騒がれ、国内での感染者の数は増え続けた。そして4月7日からは東京都など全国7都道府県で緊急事態宣言が出され、4月16日からは全国に宣言が拡大された。そしてこれは5月14日まで続き、主要都市では5月25日までと、約2か月間、経済活動が制限される状態が続いた。
この宣言解除後は従来通りの経済活動が復活し、今まで通りの生活が戻ることとなったが、実際には今まで同じ生活は戻ることはなかった。換気の悪い密閉空間・多数が集まる密閉場所・間近で会話や発生をする密接場面を合わせたいわゆる「三密」を避けた行動、その三密にならないように人との間隔を空ける「ソーシャルディスタンス」、「不要不急の外出」を控えた「自粛」などの状況が常態化している。マスク着用は今や当たり前、定期的な換気も絶対条件、人が密集しないような空間の工夫などは2019年以前の人間が見れば驚くであろう。また、国外への旅行は完全になくなったが、国内の旅行も現実は行くことが難しい。知人の話では週末に市外へ外出するだけでも事前に管理職への報告と許可が必要である始末である。

(2)我が国の対策の心理的影響
このような三密を避けたソーシャルディスタンスを保った行動、不要不急の外出を避けた自粛の奨励は感染症への対策には効果があるだろう。しかしその一方でこうした物理的に人との距離を空け、不要な用事以外は外に出ないという習慣は心理的にも影響を及ぼしていると考えられる。そもそも心理学では習慣をはじめとした人間の行動が心理的な影響を及ぼしていることは従来から唱えられてきた。例えば竹原(2013)によれば( )、Rossberg-Gemptonら(1993)の実験( )では、実験参加者に特定の姿勢を一定時間取らせ続けた。そしてその後の感情を見ると、背筋をピンと伸ばし胸を張った姿勢ではポジティブな感情が喚起され、逆に背中を曲げ気味にうなだれうつむき加減な姿勢ではネガティブな感情が喚起されたことが報告されている。この例は姿勢によって感情が左右されるというものであるが、このような法則は行動や習慣でも同じことがいえる。つまり、新型コロナでの自粛などの抑制された行動は、人間の心理をも抑制している可能性がある。本来人間は自分の知らないことや珍しいこと、神経なことに興味を感じたり、知りたいと思ったりする欲求を持っている。しかし、このような知的好奇心は自粛によって抑えられ、失われていくのではないか。
また、ソーシャルディスタンスはパーソナル・スペースの観点からも心理的な影響を与えているといえる。パーソナル・スペースとは個人空間と訳されるように人の身体を中心にした、直接見ることのできない空間領域のことであると渋谷(1990)は定義している( )。そして、二者間の距離の大きさコミュニケーションの際の相互の親密さを調整する働きがあるという( )。つまり親密になるほど二者間距離は近く、親密ではないほど二者間の距離は遠くなる。ソーシャルディスタンスは人との距離を2m以上空けるものであるので、親密性も遠くなっていく可能性が挙げられる。

2.教育・学問の現状
(1)新しい学習指導要領と現状
教育現場では2020年度から新しい学習指導要領がスタートした。この新しい学習指導要領では、これからの教育課程の理念として「社会に開かれた教育課程」の実現を目指しており、その実現のために従来の「何を学ぶか」という指導内容の見直しにとどまらず、「どのように学ぶか」、「何ができるようになるか」を改善することを求めている。特に「どのように学ぶか」について、主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善(アクティブ・ラーニングの視点からの授業改善)を推進している。そして、アクティブ・ラーニングの実現に向け、教育の現場ではグループワークを充実させた授業をはじめとしたさまざまな授業改革が行われていた。
しかしながらこのようなアクティブ・ラーニングへの期待がありながら迎えた2020年であったが、新型コロナの影響は教育の現場も大きく変えてしまった。2020年4月から一斉休校が行われ、学校は一時停止の状態となった。自宅待機となった生徒の学力保障のためにも休校中はオンライン授業が多くの学校で導入された。しかし、休校の期間はただでさえ足りない授業時間数に頭を悩ませることとなった。また、アクティブ・ラーニングの実現については、かなり厳しい状況になった。上記のような授業時間の確保やソーシャルディスタンスを保つためにグループワークが控えられており、実現が難しくなっていることが現状である。

(2)危惧
こうした状況で恐れられていることは「教師主導の授業への先祖返り」であるという( )。つまり、オンラインでの少ない時間での授業や授業時間の確保のために教師が一方的に授業することになってしまい、アクティブ・ラーニングが実践できず、従来の授業のままになってしまっていることが問題であるという。この意見には賛同できる部分が大きいが、ここで恐れられていることはどちらかといえばアクティブ・ラーニングと同義である「主体的・対話的で深い学び」の「対話的な学び」の方であろう。オンライン授業や授業時間の少ない状況ではグループワークなどの作業が容易にできないのは目に見えている。このような状況の中では対話的な学びができず、兎に角「いかに効率よく教えられるか」という教師一方的な授業になるのは致し方ないのかもしれない。さらに、新型コロナの心理的影響で示唆されたようなソーシャルディスタンスとの関係からいえば、対話的な学びで重要な他者との関係も親密なものではなくなっている可能性も高い。このように対話的な学びの実現ができないことは確かに危惧されるものである。
しかし、本来危惧しなければならないことは「対話的な学び」の実現よりも「主体的な学び」の実現である。主体的な学びとは他者との関係が重視される対話的な学びとは反対に学習者個人が重視されるものである。学習者個人が主体的に自ら学ばなければ対話的な学びもただの活動になってしまい、深い学びになることはない。つまり、主体的・対話的な深い学びを実現するためには、先ずは主体的な学びを実現させることが最優先である。教師主導の授業であれ、先ずは主体的な学びが実現しているかどうかに着目しなければならない。しかしながら、この点に着目しても、新型コロナの影響によって主体的な学びも実現できていない状況であるといえる。それは、主体的に学ぶためには学習者が新しい刺激に出会わなければならないのであるが、先に述べたように新型コロナの自粛対策によって、心理的にも新しい刺激に出会おうとする知的好奇心が失われている可能性があるためである。本当にアクティブ・ラーニングを実現するために危惧するべきはこの点であるといえる。

結論
 以上のように新型コロナにおける政府の政策は、自粛による知的好奇心の抑制やソーシャルディスタンスによる他者との親密性の低下などの影響の可能性があることを本稿では示した。そして、それは学校教育にも、知的好奇心によって主体的に学ぶこと、他者と対話的に学ぶことへの影響が示唆された。
特に好奇心の欠如は最重要課題である。学問とは本来は「問い学ぶ」ものであって、誰かから教わるものではない。自ら好奇心を持って学ぶことが本来の姿である。このような好奇心の話になると、筆者はイソップ寓話の「北風と太陽」を思い出す。北風と太陽が、どちらが先に旅人の服を脱がせることができるかを競い、北風は風を吹いて無理やり服を脱がせようとするが失敗する。一方、太陽は燦燦と照りつけると、旅人は自分から服を脱いだ、という話である。無理やりさせるよりも自発的にさせた方が良いということであるが、現代の教育に当てはめてみると、服を着た旅人は学習者のことであろう。服は行動を制限する心の重りである。この服を脱がせるには、北風のように無理やりさせるのではなく、学習者が自ら「服を脱ぎたい」と思わせる何かが必要である。その何かを教えていくことができる教師こそが、これからの時代には求められているのかもしれない。