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2014/10/11
国家における宗教教育 ―その可能性と課題―

森一郎

キーワード : 日本国憲法、教育基本法、公立学校、宗教的情操教育

 

1 問題の所在と本稿の概要

 

国家における宗教教育を論ずる場合、2つの課題がある。1つ目は、宗教教育とは何か、具体的にどう捉えるかという点である。2つ目は、国家におけると限定条件が付くことは、すなわち、法律的な観点からどう捉えるかという点である。
1つ目の課題の宗教教育については、通常3つに分類される場合が多い )。すなわち、宗派教育、宗教知識教育、宗教的情操教育の3つである。初めの宗派教育は、特定の宗派・宗教のための教育であるため、私立学校では可能であるが、公立学校では禁止されている。したがって、公立学校では禁止されているとの観点から、本稿では論議の対象外とする。2つ目の宗教知識教育は、宗教に関する客観的な事項についての教育であるため公立学校でも可能であるというのが現在の一般的な見解で、社会科教育を中心に展開されており、最近では異文化理解教育、国際理解教育の観点からも進められている。宗教教育の中でも一番議論になるのが3つ目の宗教的情操教育である。すなわち、宗教的情操教育とは、人間の力を超えたものに対する畏敬の念や、人格や品性を形成する要因となる宗教心を育てる教育のことと一般的には理解されているが )、この教育は特定の宗教・宗派を通してしか培うことができないが故に、公立学校では禁止されているとする説と、一般的な宗教的情操というのがあり、特定の宗教を通さなくても可能だ、つまり公立学校でも可能である、という説があり対立している。以上のように、宗教教育の中でも特に問題になるのが、この宗教的情操教育となるわけで、本稿では特にこの教育に焦点を当てて論じることとする。
 2つ目の課題は、宗教教育を法的にどのように捉えるかの点であるが、日本で宗教教育を規定しているのは主として日本国憲法と教育基本法である点から、この2つの法律から宗教教育をみていくこととする。
 以上を踏まえて、本稿では日本国憲法および教育基本法の視点より、宗教教育、特に宗教的情操教育が公立学校で実施可能か否かを検討していき、最後、実際に実施する場合の課題について、考察していく。

 

2.日本国憲法の条文からみた実施可能性の検討

 

戦後日本の宗教教育を考える場合、最初に大きな影響を与えたのが、1945年12月に発せられたGHQ(General Head Quarters:連合国軍総司令部)からの神道指令である。神道指令とは正式名称は「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督及弘布ノ廃止ニ関スル件」であるが、本稿と関係のある箇所を抜き出すと、「公ノ財産ニ依ツテ維持セラレル教育機関ニ於テモ神道ノ教義ノ弘布ハソノ方法様式ヲ問ハズ禁止セラルベキコト而シテカカルコウイハ即刻停止セラルベキ」であり、「神道ニ対シテノミナラズアラユル宗教、信仰、宗派、信条乃至哲学ノ信奉者ニ対シテモ政府ト特殊ノ関係ヲ持ツコトヲ禁ジ」となっている。つまり、神道だけでなく、あらゆる宗教も政府と特殊な関係をもつことを禁じているのである。これはGHQが、神道を初めとする宗教が戦争遂行の1つの要因となっていたと判断したためといわれている )。
こうしたGHQの強い影響下で1946年11月に新しい日本国憲法が公布され、宗教に関しては第20条において「信教の自由は,何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」。その第2項においては「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」。そして第3項では「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」とかなり厳しい政教分離規定となっているのである。この20条については、現在の学説では、芦部のように「憲法20条は成立のいきさつからいっても厳格な政教分離、不介入の要素に重点を置く国家の宗教的中立性の原則を定めている」 )とする厳格分離の立場もあるが、一般的には、「宗教について積極的に信仰を勧奨するのではなく、宗教の社会的意義を客観的に理解させる教育は、憲法の禁止するところではない」 )というのが、ほぼ定説となっている。
この憲法の規定に対して、本稿の研究課題である宗教的情操教育については、国会ではどのような見解が表明されたのであろうか。
 憲法公布に先立つ1946年9月17日、貴族院において白根松介(公正会)は、「この条文をただ素直に解釈致しますれば、これは否定的な条文」であるとしながら、国公立学校での宗教教育で許される範囲について質問をした。これに対して当時の憲法担当相である金森徳次郎は、「国家は一般的に云って、国民が宗教的情操を持つことを希望しておりますが、特定の宗教について国家は関与しないのであります」と原則を述べながら、宗教教育は、特定の宗教教義と組み合わせなければ考えられないとし、「第3項の宗教教育と云うことは、当然に総ての宗教にも共通する所の、謂わば宗教情操教育と云うことを含まないことは自然の結果であろうと思います」との見解を示した。つまり憲法で禁止している宗教教育とは宗派教育であるとし、逆説的な意味で、宗教的情操教育が憲法とは抵触しないとされたのである )。ここで注目すべきは、終戦のちょうど1年後の1946年8月15日、つまり憲法公布の前に、第90回帝国議会において「宗教的情操教育に関する決議」を行っている点である。この中で「われわれは、世界恒久平和運動を展開しなければならない。そのため宗教的自覺による四海同胞、隣人愛、社会奉仕の思想を普及徹底させると共に、宗教的情操の陶冶を尊重せしめ、以て道義の昂揚と文化の向上を期さなければならない。」との文を決議したのである。これは先ほどの帝国議会での答弁と関連させると、公立学校で禁止されているのは特定宗教の推進を目的とする宗派教育であって、宗教的情操教育は禁止していないだけでなく、大切にすべきものであることを憲法公布前に国民にアピールするためであったとみることができる。
 次に、教育行政に直接責任をもつ文部省が、宗教的情操教育についてどのような見解をもっていたのかを検討すると、以下のようになる。
文部省は、終戦直後の1945年9月に「新日本建設ノ教育方針」を発表している。この中では、日本が「文化国家」「道義国家」を建設するための、具体的な方針の1項目として「宗教」をあげ、そこでは、国民の「宗教的情操」と「敬虔ナル信仰心」を養い、「宗教ニ依ル国際的親善ヲ促進」して「世界ノ平和ニ寄与」すると、宗教の必要性を大へん格調高く主張されているのである。さらに文部省は、GHQの神道指令発表後の1946年6月にも「新教育方針」を発表している。これは教育改革の理論と実践方法を示すため全国の学校に配布されたもので、第1部前篇第4章は「科学的水準及び哲学的・宗教的教養の向上」と題しており、信教の自由と政教分離を説きつつ、宗教の本質を論じ、人間にとって宗教が持つ重要な意義を指摘している。つまり文部省はGHQが宗教的な内容を禁止しているにも関わらず敢えて宗教の重要性を訴えたのである。
以上の様に、憲法制定前後の動きからみてみると、文部省においても、帝国議会(国会)においても戦後、比較的はやい時期より宗教的情操教育の重要性を説いていたことになる。

 

3.教育基本法の条文からみた実施可能性の検討

 

以上の流れの中で教育基本法制定の動きが生まれてくるが、作成の中心となったのが教育刷新委員会である。委員会が作成した「参考草案」の前文は次のようなものであった。
「教育は真理の解明と人格の完成を期して行なわれねばならない。従来我が国の教育は、ややもすればこの自覚と反省に欠けるところがあり、特に真の科学的精神と宗教的情操が軽んじられ、徳育が形式に流れ、教育は自主性を失い、ついに軍国主義的、または極端な国家主義的傾向を取り入れた。この誤りを是正するためには教育を根本的に刷新しなければならない」 )。
 この草案では、戦前の国家主義的な教育を反省しつつ、宗教的情操や徳育の必要性を述べている。
 こうして1946年11月29日、教育刷新委員会第1特別委員会から提出された最初の教育基本法要綱は、次のようなものであった。
 七条 宗教教育 宗教的情操のかん養は、教育上これを重視(下線筆者、以下同様)しなければならない。但し官公立の学校は、特定の宗教的教育及び活動をしてはならないこと。
ところが、実際の教育基本法の第9条では「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない」。2項として「国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない」となった。
つまり、「宗教的情操」という言葉が消え、代わって「宗教に関する寛容の態度」となり、「重視」が「尊重」に変わり、トーンダウンしたのである。これに関しては、旧法制定時の文部官僚であった安達健二は、「宗教的情操」の教育は、特定の宗教を介してでなければ涵養できないことであり、また国家神道や修身により軍国主義の手段となっていた当時の実態を排除する連合国軍総司令部の意向があったと伝えている )。しかし一方では、文部省自体が教育基本法の解説書として執筆した『教育基本法の解説』によれば、宗教教育は「広い意味では宗教に関する知識を与え、宗教的情操を養い、もって人間の宗教心を開発し、人格の完成を期す教育である」 )とも述べており、また1947年に発表された最初の「学習指導要領」の「教育の一般目標」の中でも「宗教的な感情の芽生えをのばして行くこと」と記されている。つまり、文部省としては基本法に宗教的情操という言葉を入れることはできなかったが、趣旨としてはその重要性を認めていたことになる。
このことについては、当時の教育刷新委員会の動きからも明らかである。すなわち、1948年7月に、第72回総会において「教育と宗教との関係に関する建議」を行っているのである。この建議の中で、学校教育と宗教との関係について、「民主国家の建設の精神的基盤の1つ」として「宗教心に基づく敬虔な情操の涵養」が欠くことができないものであり、「自発的宗教心の啓培に関して、学校教育上特に留意すべき事項」として「凡ての教科学習を通じて、一般的な宗教的情操の涵養に留意すること」そして「宗教的情操が自然に養われるように、(略)学校の施設その他の環境を整備すること」と主張している。
 また翌、1949年10月には文部省事務次官通達第152号として「社会科その他、初等および中等教育における宗教の取扱いについて」が発表され、その中で、たとえ特定の宗教と関わりあいがあり、その宗教のエートスを漂わせている教材であっても、学校教育に相応しい内容を備えていれば、教材として使用することは認められたのである。つまり宗教教育における教材については、柔軟に対応することを促す内容になっているのである。さらに翌年の1950年には、文部省は中学3年生用の教科書として『宗教と社会生活』を発刊している。この本の「まえがき」の中で、この教科書は宗教的情操の涵養を目的としたものではないと断りながらも、「宗教とか教団というような宗教の社会的な組織が、一般の社会生活にどんな影響を与えるか」に焦点を当てたものであった。この教科書について貝塚は「以上のような宗教理解に基づいて、宗教学習の意義とその役割を積極的な表現で位置づけたことは、戦後教育史においては少なからず意味を持っている」 )と評価している。
しかし、文部省はこの本を最後として、宗教教育に関する書籍は発刊しておらず、さらに宗教教育についての発言もなく、今日に至っているのが実情である。これは先にみた宗教的情操教育は特定の宗教・宗派を通してしか培うことができない、という論に積極的に反論できなかったのもその原因の一つといわれている。また宗教教育についての発言が減少していった背景には、道徳教育との関連を指摘する説もある。すなわち1958年に小・中学校に「道徳の時間」を設置していったが、1950年代は「文部省対日教組」という構図が鮮明になる中で、「道徳の時間」の定着を何よりも優先する中で、議論の多い宗教の問題は敢えて触れないという選択をしたのではないか、というのである )。
ところが文部省の消極的な姿勢とは反対に、その諮問機関である中央教育審議会(以下、中教審と記載)の答申では、文部省とは逆に、宗教教育、特に宗教的情操教育については、その後、積極的に言及しているのである。
1966年には、中教審答申の別記である「期待される人間像」の中で「すべての宗教的情操は、生命の根源に対する畏敬の念に由来する。(略)このような生命の根源、すなわち聖なるものに対する畏敬の念が真の宗教的情操であり、(略)真の幸福もそれに基づく」。このように「生命の根源、すなわち聖なるものに対する畏敬の念が真の宗教的情操」であると簡潔・明瞭に定義され、その教育の必要性を説いている。 
そして1986年4月には臨時教育審議会第二次答申が出され、その中で「豊かな社会の実現が」、「思いやりの心、感謝の気持、祖先を敬う心、自然や超越的なものを畏敬する心、信仰心などが衰弱するという結果を招き、心の貧困をもたらし」と警告しており、そして「教育の目的が、人格の完成を目指すことにある以上」、その実現に近づくためには「自然に対する優しさと思いやりの心、感謝の心、さらには豊かな情操、人間の力を超えるものに対する畏敬の心などを含むもの」が大切であると訴えている。
さらに1998年の中教審答申の中で、我が国は「誠実さや勤勉さ、互いに思いやって協調する〈和の精神〉、自然を畏敬し調和しようとする心、宗教的情操など」生活の中で大切にされてきた。そしてその、「宗教的な情操をはぐくむ上で、我が国における家庭内の年中行事や催事の持つ意義は大きい。(略)例えば、初詣や節分で無病息災を祈ったり、家族一緒に墓参りをしたりして先祖と自分との関係に思いを馳せることなどを通して、人間の力を超えたものに対する畏敬の念を深めるなど、宗教的な情操をはぐくむ貴重な契機となってきた」と宗教的情操を涵養することの大切さを訴えているのである。
 そしてさらに、2000年の「教育改革国民会議」では「17の提案」の中で、「宗教を人間の実存的な深みにかかわるものとしてとらえ、宗教が長い年月を通じて蓄積してきた人間理解、人格陶冶の方策について、もっと教育の中で考え、宗教的な情操をはぐくむという視点から議論する必要がある」と主張している。    
 また2002年の中教審答申では「グローバル化が進む中で、他者や異文化、更にはその背景にある宗教を理解することの重要性が一層高まる」と時代背景を総括し、「今後とも、家庭や地域社会の教育力の向上に向けた取組みの推進が必要である」とし、その為には「伝統的な生活習慣などの〈生活文化のかたち〉を子どもたちにしっかりと伝え、あいさつやマナー、善悪の判断基準、基本的な社会道徳等を身に付けさせるとともに、美を感じる心や自然に対する畏敬の念、豊かな情操、宗教に対する理解などをはぐくんでいく必要がある」と主張している。
 そして最近では2003年の中教審答申の中で「人格の形成を図る上で、宗教的情操をはぐくむことは、大変重要である。現在、学校教育において、宗教的情操に関連する教育として、道徳を中心とする教育活動の中で、様々な取組が進められているところであり、今後その一層の充実を図ることが必要である」と、宗教的情操教育は従来からも行われており、今後は「その一層の充実」を図るべしと強調しているのである。
このように中教審等の答申では、一貫して宗教的情操教育の重要性を説いている。そしてこうした中で、教育基本法の改正が進められ、2006年12月に新しい教育基本法が公布された。
第15条 宗教教育  宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は教育上これを尊重しなければならない。
2 国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない
結局、中教審が頻繁に宗教的情操教育の必要性を訴えていたにもかかわらず、結果的には旧法に対して新しく下線部が追加されただけであった。では、宗教的情操という言葉がなぜ入らなかったのか、という点であるが、これについては当時の田中壮一郎生涯学習政策局長は、「宗教的情操という言葉は多義的でございまして、その中には、宗教的情操は特定の宗教に基づかなければ涵養できないのではないかといった意見もございましたことから、宗教的情操をはぐくむことは大変重要であるものの、条文にはそれを規定することについて提言されなかったところでございます」 )と答弁している。多義的、つまりいろいろな意味を含む言葉であるため使うのは控えよう、しかし宗教的情操そのものは大切である、と答弁している。
それでは宗教的情操教育を公立学校で実施する可能性はないのか。ここでは3つの点を指摘しておく。1つは改正基本法の第15条では、旧法9条の条文に加えて「宗教に関する一般的な教養」の尊重が規定されているが、「宗教に関する一般的知識」ではなく「一般的教養」と、「教養」という言葉を使用した点にも注意が必要である。国語辞典で教養とは「単なる知識ではなく、一定の文化理解を体得し、それによってあらゆる個人的能力の統一的発展を身に付けること」とされている )。したがって「一般的教養」としたことにより、宗教についての知識だけでなく、宗教的な情操を含む幅広い理解が求められていると解釈できる。今1つは、新教育基本法では第2条第1項で、教育の目標を達成するために、幅広い知識と教養、真理を求める態度、豊かな情操と道徳心の涵養、健やかな身体の養成が規定されている。ここで注目すべきは「豊かな情操」という言葉である。情操とは、国語辞典等によれば、道徳的、芸術的、宗教的などの高い価値を伴った感情のことであると規定されており )、当然のことながら、宗教的情操も教育の目標の中に入っているとみることができる。3つ目は、同じく第2条第5項では「伝統と文化」を尊重することも教育の目標に入っており、これについては基本法の前文にも「伝統を継承」することも推進すべき目標とされている。伝統と文化の内容についても多様なものが考えられるが、ここでも日本の宗教や、日本人の伝統的な宗教心も含まれると解釈できる )。
以上、教育基本法の条文の中には宗教的情操教育という言葉はないものの、制定時の国会での答弁からも、また宗教教育の項目での「宗教に関する一般な教養」を尊重する上からも、また教育の目標の「豊かな情操」を培い、「伝統と文化」を尊重する上からも、いずれの側面からみても、こうしたことを法律で規定している上から、公立学校で宗教的情操教育を行うことは可能であるといえるのではないだろうか。

 

4.実施していく場合の今後の課題

 

今後、公立学校で宗教的情操教育を実施していく場合の課題として、以下の4点をあげる。
1つ目は、公立学校で可能な教材およびカリキュラムの開発である。教材は授業での大切な一要素であり、これが充実していないことには、よい授業が展開できないともいえる。したがって、公立学校において、偏りのない、誰でもが納得できる教材がまず必要と思われる。また、その教材をどの教科・科目または時間に使用するのかといったカリキュラムの問題も早急に解決する必要がある。中等教育段階で、宗教教育を考える場合は、①社会科や国語科など既存の教科・科目の中で実施する場合。②学校設定教科・科目として実施する場合。③中学校「道徳の時間」の中で実施する場合。④特別活動の中で実施する場合。⑤「総合的な学習の時間」の中で行う場合等について考えられるが、その場合の個々の具体的なカリキュラムを検討する必要がある。さらに教科の中で単元構成を考える場合は、いきなり宗教的情操の部分をもっていくのではなく、まずは具体的な宗教的知識の部分を学習し、その上で情操のところに入っていくのが望ましいと思われる。これは第3章でとりあげた『教育基本法の解説』の中の、「宗教教育は広い意味では宗教に関する知識を与え、宗教的情操を養い、もって人間の宗教心を開発し、人格の完成を期す教育である」とあるように、客観的な知識を最初に学習しておいた方が理解が早いと思われる。こうした点は当然のことながら、ひとつの学校だけの問題ではなく、日本全体の教育制度および教育体系の中で考えねばならない問題ではある。
 2つ目は、上記の具体的な授業方法の開発である。授業は、教師が教材を使って単に講義すればよいというものではない。グループでの話し合いおよびそれに基づくプレゼンテーション、ディベート、視聴覚教材を使った方法等、複数の授業方法が考えられる。それらと前述の教材を組み合わせると、多種多様な授業展開が可能となってくる。こうした点を今後研究・開発する必要がある。
3つ目は、授業の評価方法の開発である。道徳教育や宗教的情操教育は評価には馴染まないという考え方がある。たしかに数字で評価するのは馴染まないかもしれないが、自分で自分の心や生き方の成長を評価する自己評価、さらに子供同士の評価、あるいは保護者からの評価も考えられる。また評価は生徒に対してだけでなく、教師にとっても必要と思われる。すなわち授業を行ったことに対する効果を問うことは必要な作業と思われる。以上の様に評価は一様ではないわけで、評価はできないと諦めてしまうのではなく、まずは議論のテーブルに乗せることが肝要かと思われる。
最期に、教員養成に関する点である。大学での教員養成課程をみても、宗教についての知識については、社会科教育を中心に教授されているが、宗教的情操教育については、ほとんど触れられていないのが実情である。道徳教育についても、学習指導要領で宗教的情操の言葉を使用していないことにもよるが、一般的にはされていないか、されていても「いのちの教育」の中で「生命への畏敬の念」として触れる程度である。宗教抜きに先祖や「大いなるもの」、「人間の力を超えたもの」に思いを馳せる心情を培うことをしている。このように宗教抜きで「生命への畏敬」や「人間の力を超えたもの」を実感させることは可能かの検討も必要である。
 以上の4点が、今後積極的に取り組む課題だと思われる。

 

 

 

 

1 井上順孝編『現代宗教事典』弘文堂、2005年。日本公民教育学会編『公民教事典』第一学習社、2009年など。また文部科学省も、この三分類を認めている『文部科学時報』2003年5月号、pp.124-125。
2 宗教的情操については、次のような定義がある。
定義①「宇宙、自然に対し、そして自己の存在に対して驚異や感動をもって見つめる心」。杉原誠四郎「憲法・教育基本法と宗教教育」『宗教心と教育』日本教育会研修事業委員会編、社団法人日本教育会、1988年、p.180。
定義②「宗教的情操は〈知〉〈情〉〈意〉の複合した健全な心の状態であり、洗練された全人格的発露であるが、真の宗教的情操の具体的特質は次の6つである」として「真実を見極める叡智、安らぎ、柔軟な心、慈しみの心、慚愧の心、歓喜の心である」と定義している。海谷則之『宗教教育学研究』法蔵館、2011年、p.70。
定義③「ある人にとって、究極的・絶対的な意味をもつ価値が志向されている
場合、その価値に関わる情操を宗教的情操と呼ぶことにする」。家塚高志「宗教教育の理念」
『宗教教育の理論と実際』日本宗教学会編、鈴木出版、1985年、p.27。           
定義④「神・仏あるいは法などの認識の対象があってこれについての知的な活動があること、
この対象に対して、敬う、帰依する、愛する、おそれるなどの諸感情があり、これらが組織
され、意味づけられていること、が最小限必要といえよう。(略)またこの情操のもち方い
かんが、人格や品性を形成し、これを高めていく上の、したがってまた、道徳的形成のため
の、極めて重要な要因ともなる」。深川恒喜、千葉博編著『道徳教育における宗教的情操の
指導』明治図書、1965年、p.37-38。
3 大原康男「神道指令と戦後の政教問題」『国家と宗教の間―政教分離の思想と現実』日本教文社、1989年、p.11。
4 芦部信喜『宗教・人権・憲法学』有斐閣、1999年、p50。
5 山崎友也「信教の自由と政教分離原則」『日本国憲法―主権・人権・平和―』ミネルヴァ書房、2010年、p100。
6 貝塚茂樹「戦後教育における宗教教育問題」『日本の宗教教育と宗教文化』文化書房博文社、2004 年、p.65。
7 堀尾輝久『いま教育基本法を読む』岩波書店、2002年、p.57。
8 佐々木幸寿「宗教教育」『改正教育基本法-制定過程と政府解釈の論点』、日本文教出版、2009年、pp.273-274。
9 文部省調査局審議課内教育法令研究会編『教育基本法の解説』国立書院、1947年、pp.120-121。
10 前掲書6)p.88。
11 貝塚茂樹『戦後道徳教育の再考』文化書房博文社、2013年、p.224。
12 佐々木幸寿「宗教教育」『改正教育基本法-制定過程と政府解釈の論点』.日本文教出版、2009年、p.275。
13 『広辞苑』岩波書店
14 小学館『国語大辞典』、岩波書店『広辞苑』など。
15 日本の文化や日本人の精神を理解するためには、目に見えない「お蔭様」に感謝する心、死者や先祖の魂を慰霊する心、天が見ているとして自分の行動を律しようとする態度、あるいは目には見えないものに対する畏敬の念などは単なる宗教的知識だけでは理解できないのであって、こうした日本の文化や日本人の宗教心を理解する上でも宗教的情操の教育は欠かすことができないものである。