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2013/10/14
宗教教育の教材としての「映画」―公立学校の場合―

森一郎

1.はじめに

 

宗教教育については、通常、次の3つに分類されて検討されている。すなわち、宗派教育、宗教知識教育、そして宗教的情操教育の3つである。1つ目の宗派教育は、特定の宗派・宗教のための教育で、私立学校では可能であるが、公立学校では禁止されているため、本稿では対象外とする。2つ目の宗教知識教育は、宗教に関する客観的な事項についての教育であるため公立学校でも可能であるというのが現在の一般的な見解で、現在は社会科教育を中心に展開されており、最近では異文化理解教育、国際理解教育の観点からも進められている。宗教教育の中でも一番問題になるのが3つ目の宗教的情操教育である。すなわち、宗教的情操教育は特定の宗教・宗派を通してしか、培うことができないが故に、公立学校では禁止されているとする説と、一般的な宗教的情操というのがあり、特定の宗教を通さなくても可能だ、つまり公立学校でも可能であるという説があり対立している。以下、順に検討していく。

 

2.宗教知識教育の教材としての映画

 

洋画では、「天地創造」、「十戒」、「偉大な生涯の物語」、「ルルドの泉で」、「パッション」、「屋根の上のバイオリン弾き」、「汚れなき悪戯」、「セブン・イヤーズ・イン・チベット」などがあり、邦画では「親鸞 白い道」、「空海」、「お葬式」、「カナリア」、「死者の書」、「おくりびと」などがある。

 

3.宗教的情操教育とは

 

次の宗教的情操教育の宗教的情操とは一般に、「人間の力を超えたものに対する畏敬の念」と定義されているが、前述したように、これが特定の宗派・宗教からのみ理解することができるのか、それとも普遍的な宗教的情操というのが考えられ、公立学校でも可能かについて論争がある。本稿では詳しい論争の経緯等は略するが、結論をいえば公立学校でも可能であると思われ、それは下記の図によって示すことができる。
「隣人愛」、仏教では「慈悲」などの言葉を使って説明している。しかし宗教を、人間の力を超えた存在に対する畏敬の念や、人間の生や死に対する物の見方等広くとらえると状況は大きく異なってくる。すなわち、Bの部分のような宗派教育に抵触しない宗教的情操教育が存在すると思われる。たとえば祖先を敬う等の日本人の伝統的宗教心などは特定の宗教とはかかわらない宗教的情操となる。先祖の霊に対する尊崇の念は、特定の宗教からきているものではなく、伝統的に日本人が持っている宗教心である。さらに自然に対する畏敬の念、すなわち驚異、畏れ、また感謝の念も、同じく伝統的な日本人の自然観および宗教心からきている。つまりこれは「宗教」ではないが、まさに「宗教的」ではある。こうした観点は改正教育基本法の前文や第2条で規定されている「伝統と文化」を尊重する教育の在り方とも合致する。このような宗教的情操教育は家庭および地域の伝統的行事を通じて、そして公立・私立を問わず学校教育の中で充分教育の対象となりうることがらであり、いずれにしても、宗派教育でない宗教的情操教育は充分可能であると思われる。

 

4.公立学校でも実施可能な宗教的情操教育の映画教材

 

それでは、公立学校でも実施可能な映画教材にはどのようなものがあるか。ここではテーマとして「祈り」を取り上げ、検討していく。「祈り」とはきわめて宗教的な言葉であるが、東日本大震災を受けて平成23年4月6日、当時の総理大臣と文部科学省大臣の連名で「新学期を迎える皆さんへ」と題した文章の中に「(前略) どうか、他人の意見もきちんと受け止めながら、自分で合理的な判断ができる冷静な知性を身に付けて下さい。しかしそれだけでなく、他人のために祈り涙する、温かい心も育んで下さい。(下線筆者、以下略)」とある。つまり公文書の中に「祈り」という極めて宗教的な言葉を使っているということは、この言葉が公立学校でも使用可能な言葉であり、概念であると思われる。

以上のような観点から「祈り」に関する映画を検討すると白鳥哲監督のドキュメンタリー映画「祈り―サムシンググレートとの対話」がある。この映画は、俳優や声優としても活躍する白鳥監督が、前作「不食の時代」を制作中に、主人公の鍼灸師、森美智代さんが施術の前に祈る姿を見たことがキッカケで、「祈り」に興味を持ち、関連書籍を見て、祈りによる医療が科学的に検証されていることを知って制作したといわれている。「祈りやヒーリングは、日本ではまだ一部、偏見のある分野かと思います。だからこそ、抽象論にではなく、科学的に伝えたいと思いました」と白鳥監督は述べている。遺伝子解明の権威である筑波大学の村上和雄名誉教授をはじめ、国内外の医学博士や学者の研究結果を、インタビューを交えて紹介し、一般の人に分かりやすく伝えるために、回想ドラマをはさみこんでいる。2年にわたる撮影の途中、東日本大震災が起こり「誰かのために祈ることの大切さを、みなが再確認したのでは。この作品がさらに力になれば」と監督は語っている。映画の大半は、祈りを科学的に分析するとの立場から、各国の研究者による研究成果の紹介に当てられているが、最後の場面で、次のような詩が声優でもある監督のナレーションで紹介されている。

 

大きなことを成し遂げるために、強さを与えてほしいと神に求めたのに、謙遜を学ぶように弱さを授かった。
偉大なことができるようにと健康を求めたのに、より良きことをするようにと病弱を賜った。

幸せになろうとして富を求めたのに、賢明であるようにと貧困を授かった。
世の人々の称賛を得ようとして、力と成功を求めたのに、得意にならないようにと失敗を授かった。
人生を楽しむためにあらゆるものを求めたのに、あらゆるものを慈しむために人生を授かった。

求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。
私はもっとも豊かに祝福されたのだ。

 

この詩は、「祈り」について、次のようなことを示唆していると思われる。すなわち、一般的には「祈り」は人の願望を現わしている。つまり何かをお願いすることである。しかしこの詩は、祈り(願望)は必ずしも叶うものではなく、むしろ祈ったこととは反対の結果になる場合があることを示している。大切なことはその結果をどう「解釈」するかである。敢えて宗教的な言葉を使うと、どう「悟る」かである。ここに「祈り」が単に科学的に分析できるだけでなく、宗教的な意味があることをあらわしているのである。

 

5.宗教教育の教材として「映画」を使用する場合の課題

 

本稿では宗教教育を宗教知識教育と宗教的情操教育に分け、それぞれに使用可能な映画を検討してきた。しかし実際に学校現場で映画を使用する場合、もしくは紹介する場合は、かなり検討しなければならない課題も存在する。たとえば宗教知識教育の教材として紹介した映画も、使い方や見方によれば宗派教育的に見てしまう場合も考えられる。「偉大な生涯の物語」や「親鸞 白い道」なども歴史映画とみる見方も存在するが、宗祖の生き方の伝記映画とて見ることも可能である。この点も、映画をどの授業で鑑賞するかという点と、教師の事前指導も大きく影響してくる。また最後に紹介した祈り」の映画も、宗教的な点に理解のある生徒が見れば、それなりに感動する場面もあるが、そうでない場合は、祈りを単に科学的に分析した映画、もしくは祈りを、念力や超能力の賜物としてオカルト映画として見てしまう可能性も存在する。この点も、授業での事前・事後指導と同時に、教師自身に深い宗教的理解が必要とされる。こうした点も、教師を対象とする宗教教育と関連して検討しなければならない課題となってくる。