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2013/01/13
「空」で読み解く生と死

溝浦健児

はじめに -仏陀が見出した境涯-
 
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色盛者必衰の理をあらはす、
おごれる人も久しからずただ春の夜の夢のごとし。
たけき者もつひには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ。

栄枯盛衰を表すこの一節は、かの有名な『平家物語』の序文である。 人の世の儚さは、いつの時代も変わらない。
かつて、覚者ゴータマ・シッダッタ(1)が語った、一切皆苦と諸行無常の理は、生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦(2)という四苦八苦の概念で、人生の本質は苦(3)である事を示している。物質的豊かさや刹那的な快楽では人は救われず、諸法無我の理を悟り、涅槃寂静(4)へと解脱する道が、唯一の希望であると。
 
第一章 -「空」とは何か?-
 
仏教における「空」の概念は、その難解さ故、仏教の根幹を成す重要な要素であるにも関わらず、正確に周知徹底されていない。サンスクリット語でsunya(シューニヤ)といい、空性や無相とも訳されるこの概念を要約すれば、“全てのものには、(本質的かつ恒常的な)実体が無い”事である。
「空」という言葉から連想される一般的なイメージ、すなわち“何も無い”とか“空っぽ”といった虚無とは決定的に異なる点(5)に、注意が必要である。この世に存在するありとあらゆるもの、森羅万象全ては、筆者も含めて、時間的、空間的、概念的に拘束される存在である。いかなる存在、現象も、自性(それだけで独立して存在する固有の実体)を持たず、それぞれの関係性(相互依存、相互矛盾や相互否定)(6)の上で成り立ち、生滅変化を繰り返す、“有って無い、無くて有る存在”である。この関係性を縁起(サンスクリット語 pratity-samutpaada)(7)といい、因縁生起(※「因に縁って起こる、生起する」の意味)の略称に由来する。
縁起を説明する際によく用いられるのが、「種子の発芽」であり、これは種子が存在するという原因(因)に、日光や降雨、土壌に含まれる養分や水分、気温や湿度といった条件(縁)が加わる事により、種は芽を出す事が出来るのである。種子という 原因、日光、降雨、土壌に含まれる養分や水分、気温や湿度といった条件は、これら のうちの、どの要素が欠けても、種子は発芽する事は出来ない。
さらに仏教では、この縁起という概念を、時間軸で考察される「因果関係(※現象 を原因、過程、結果)のプロセスで捉える事」に加え、空間軸や概念上の相関関係に も当てはめる。例えば、上下や左右、前後や縦横、大小や長短、男女や親子、有無や +-、善悪や勝負などの相反する二つの事象は、どちらか一方を規定する事で初めて 存在(※我々の観念として認識される)できる、言語化された概念である。ひとりの 男性(同一人物)が、自身の置かれた立場と相手との関係によって、親と呼ばれ、子 と呼ばれ、また、夫と呼ばれ、父と呼ばれるのである。
このように、親という概念が存在しなければ、それに相対する子という概念も存在 せず、逆に子という概念が存在しなければ、それに相対する親という概念も存在しな いことになる。これらは、「これがあるとき、それがある。これが生じるとき、それ が生じる。これがないとき、それがない。これが滅するとき、それが滅する。」とい う定型句に集約される。
 
第1章 -龍樹『中論』解説-
 
空を学ぶ上で、欠くことが出来ない古典的テキストである『中論』の執筆者、龍樹(サンスクリット語名、ナーガールジュナ、Nagarjuna)は、紀元150-250年頃に、南インドで活躍したとされる僧侶である。インドやチベット、中国や日本など、おおよその仏教(大乗仏教)に多大なる影響を与えた龍樹は、我が国においても、八宗の祖(全ての衆派の祖)としての崇敬をあつめている。
龍樹が『中論』を記した最大の理由は、彼の在世当時、仏教内外を問わず台当しつつあった、アビダルマ(8)哲学等、精妙な理論武装で「実在論」を提唱する諸学派を論破(9)し、仏陀が見出した「空」の境涯に、発展的に原点回帰する事であった。その手法は、実在論を展開する諸学派の論説と一つ一つ向き合い、検証してその矛盾点を突き、一つ一つ否定(論破)していくという地道で、かつ徹底した帰謬論証(10)を採用している。『中論』は、その冒頭で、全体の要項である「八不の偈(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去)」(11)を記した「帰敬序」と、27の章からなる。
 
以下に各章の構成を表す。
観因縁品第一(pratyaya「緣」)
観去来品第二(gatagata「去ることと来ることと」)
観六情品第三(caksuradindriya「眼などの認識能力(根)」)
観五陰品第四(skandha「集合体(蘊)」)
観六種品第五(dhatu「要素(界)」)
観染染者品第六(ragarakta「貪りと貪る者と」)
観三相品第七(samskrta「つくられたもの(諸現象、有為)」)
観作作者品第八karmakaraka「行為(業)と行為者(作者)と」)
観本住品第九(purva「先行するもの」)
観燃可燃品第十(agnindhana「火と薪と」)
観本祭品第十一(purvaparakoti「(輪廻の)前後の究極」) 観苦品第十二(duhkha「苦」)
観行品第十三(samskara「(潜在的)形成作用(行)」)
観合品第十四(samsarga「結合」)
観有無品第十五(svabhava「自性(固有の実体)」)
観縛解品第十六(bandhanamoksa「繫縛と解脱と」)
観業品第十七(karmaphala「業と果報と」)
観法品第十八(atman「アートマン(我、主体)」)
観時品第十九(kala「時」)
観因果品第二十(samagri「集合」)
観成壊品第二十一(sambhavavibhava「生成と壊滅と」)
観如来品第二十二(tathagata「如来」)
観顚倒品第二十三(viparyasa「顚倒」)
観四諦品第二十四(aryasatya「聖なる真理((四)聖諦)」)
観涅槃第二十五(nirvana「ニルウァーナ(涅槃)」)
観十二因縁品第二十六(dvadasanga「十二支(縁起)」)
観邪見品第二十七(drsti「誤りの見解(邪見)」) (龍樹著、三枝充悳訳注『中論(上)-縁起・空・中の思想』第三文明社より出典)

これら、各章を一つ一つ、個別に解説していくのも良いが、筆者なりに色々と苦慮し、論文のいたずらな巨大化を防ぐためにも、これらの中から、観燃可燃品第十(agnindhana「火と薪と」)を代表として選び(12)、先に記した八不の偈と照らし合わせて読み解く事で、『中論』全体に貫かれた、龍樹の哲学を明らかにしていきたいと思う。
説一切有部(13)など、実在論を唱える諸学派は、この「火と薪」に関しても、無常に対する恒常、常在での実体を想定しているが、彼等が言うような、“(薪など)可燃物無しで燃え続ける炎”など現実には存在せず、恒常の実体が顕現(常在の世界から無常の世界へ向けて投影された)したものでもないし、火という実体を持った恒常の存在が(異世界へ)帰還していくわけでもない。火とは、酸化という化学反応現象であり、何も無い空間上に、火種と可燃物無しに火が発生する事はなく、また永遠に燃え続ける事もありえず、薪そのものが火である事もない。火と薪が全く無関係な存在であれば、薪を燃料に火が燃える事はありえず、燃焼の進行によって薪が灰に変化していく事もない。まさに炎は、“不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去”なのであり、他の事象と同様に、その本質は「空」なのである。
つづいて「空」と表裏一体である、「色」について考察するが、この概念は“色卽是空、空卽是色”というフレーズで般若心経の中に登場するので、ご存知の方も多いと思う。この「色(サンスクリット語でruupa)」という概念は、五蘊(14)の一つで、我々の肉体も含んだ物質的な要素全般を意味し、広義には人間の感覚器官(五感)である、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚+精神(15)が認識する対象を指す。これらは、絶えず生滅変化していく「諸行無常」なる存在であり、他との関係性の中で成り立つ「諸法無我」なる存在故に、その本質は「空」である。同じ事の繰り返しになるかもしれないが、「空」と無は同じレベルで語られるべき相対概念ではない事に、注意が必要である。物質的要素たる「色」は、無に対する有であるから、「空」という概念は、無と有を具有し、かつ超越した上位の概念であり、言いかえるなら、抽象度が最高レベルにまで引き上げられた観念である。すなわち、個々の概念(主として名詞)は、森羅万象の中から、ある特定の概念を選び出す「部分関数」であるといえ、何らかの特徴(具体性)を有するものを「色」と言う。
 
第2章 -自我と空性-
 
日々の生活の中で、我々にとって自我とは、唯一絶対の自己、何ものにも代え難い、自らの存在そのものである事は、疑う余地がないであろう。人格、意識、記憶、思想、知識など、人はこの世に生を受け成長していく過程で、家族や親戚、友人や恋人といった他者と関わり合いながら、またテレビや書籍、インターネットなどの情報源に影響されながら、自らのアイデンティティーを形成・維持・発展していく。しかし、この自らの存在そのものと思われる自我-ヒトの意識と感情-とは、突き詰めて考えれば、脳髄という物質的存在が生み出す“電気信号のやり取り”(16)に過ぎない(17)のである。さらに言えば、ヒトの「自由意志」さえも絶対視できない事が、カリフォルニア大学サンフランシスコ校のベンジャミン・リベット博士の実験によって明らかにされている。この実験は、被験者が自身の自由なタイミングで指(もしくは手)を動かし、その前後の脳活動の状況を記録するというものであり、その結果は、“被験者が指を動かそうと思った瞬間以前に、脳はその指令を送っていた”というものであった。あらかじめ指を動かす事が決められていた実験故に、完全なる自由意志かどうか、疑問の余地はあるものの、自我、自分自身と同義語たる自由意志が、自らの預かり知らぬ(物質体である脳の物理的な)無意識的活動に大きな影響を受けている可能性がある事は、この自由意志も他の現象と同じように、(絶対的でない)相対的なもの(18)として見なす必要性を示唆している。最先端の科学分野である、「脳科学(正式には神経科学)」や「量子力学」と、その基礎を支える数学理論などとの仏教の類似性は特筆すべきものであり、脳内の電気化学的反応が自我を生み出している事実や、不確実性定理及び不完全性定理等(19)の発見は、“確固たる恒常的な実体など無い”という「空」の立場を支持している。
 
おわりに -解脱、生死の超越-
 
空性を体得する者は、この世の無常を、夢幻や蜃気楼の如き儚きものと悟り、如何に臨終を迎えるべきか、すなわち如何に生きるべきかを真摯に問いつづける人生を送る。『八千頌般若経』末尾の説話が、かつて、ある求道者を教導した如来達を、弦楽器が奏でる音色に譬え、“来るのでもなく、また去るのでもなく、原因や条件の総体に依存して生じる”と説いているように、悠久の時を刻むこの宇宙の中で、我々人間など、音や風、大海に生じる波の如き刹那の現象に過ぎないのかもしれない。筆者自身、“この形態”では、100年前は存在しなかったし、100年後も存在しないであろう。いや、今、この瞬間さえ、筆者の肉体を構成する要素は-細胞が新陳代謝で次々と入れ替わる事により-生滅変化しているのである。しかし、筆者を構成する最小基本単位(原子や分子)は、今とは異なる姿で、100年前にも存在したであろうし、100年後も存在しているだろう。
人生が儚いのなら、“全ては移り変わっていく”というこの世の真理、自然法則の一部という自覚を持って、より善く(20)生きよう。臨死体験や明晰夢(21)が、その可能性を示唆した、“至高なる存在(22)との遭遇”を信じて。
 
参考文献及び資料
 
・梶山雄一、上山春平著『仏教の思想3 空の論理(中観)』、角川ソフィア文庫、1997年
・梶山雄一著『空の思想 仏教における言葉と沈黙』、人文書院、1983年・瓜生津隆真著『龍樹-空の論理と菩薩の道』、大法輪閣、2004年・上田義文著『大乘仏教思想の根本構造』、百華苑、1957年
・龍樹著、三枝充悳訳注『中論(上)-縁起・空・中の思想』、第三文明社、1984年・龍樹著、三枝充悳訳注『中論(中)-縁起・空・中の思想』、第三文明社、1984年・龍樹著、三枝充悳訳注『中論(下)-縁起・空・中の思想』、第三文明社、1984年
・ナーガールジュナ著、西嶋和夫訳『中論(改訂版)』、金沢文庫、2006年・苫米地英人著『お釈迦さまの脳科学』、小学館、2010年
1 歴史上の、人間としての釈迦牟尼世尊、仏陀の本名(パーリ語)。サンスクリット語では、ガウタマ・シッダールタ。
2 生きている(身心の活動をしている)だけで、次から次に湧きあがってくる苦しみ。身心が思い通りにならない様。
3 仏教における苦とは、たんに苦痛や苦悩を表すものでなく、“自分の思い通りにならない”事である。
4 迷いの世界、六道輪廻(天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄での、終わり無き生まれ変わりの繰り返し)から離れた、悟りの境地。
5 空観は、中道であるかぎり、たんにあらゆるものを否定するでもなく、懐疑主義でもない。ブッダが、カートヤ―ヤナにたいして、彼の縁起説を、「あらゆるものが有る」という一つの極端説と、「あらゆるものが無い」という第二の極端説の中道として示したといわれているように、中道としての空観を、たんなる無の立場と同一視するのは誤解である。そうした誤解におちいるのを救うものとして、「世俗諦(世間の常識)」と「第一義諦(最高の真実)」の区別にかんする指摘が、『中論』第二十四章「観四諦品(聖諦の考察)」の第八偈から第十偈にかけて記されている。(梶山雄一、上山春平著(1997年)『仏教の思想3 空の論理(中観)』角川ソフィア文庫、324頁。)
6 ものが原因・条件によって生じることであるから因果関係と理解すれば、原意に近い。経典にあらわれる十二支縁起は迷いと苦しみの人間的生存の因果の系列を追求して、根本的な原因として無知と渇愛を見いだしたものである。人が善い行為をして好ましい環境を、悪い行為をして苦しみの結果を得るのも縁起である。また稲の種子から稲の芽が生じるというのも縁起である。こういう意味では、縁起はまずなによりも自然や人間存在における因果関係を指しているわけである。しかし因果関係というと、一般には、時間を異にして存在する二つのものの間にある生成の関係を意味する。ところが縁起はそのような因果関係に限らないで、われわれのことばでいう、同時的な相互作用や共存の関係、さらには同一性や相対性などの論理的関係をも含む。したがって、縁起とは因果関係だというよりも、それは関係一般のことだというほうが比較的には正しいといってよい。……こうしてみると、仏教で因果というものはわれわれの理解するものよりはるかにひろい意味であることがわかる。それと同じ事情は因果とほぼ同義の縁起ということばにもある。(梶山雄一、上山春平著(1997年)『仏教の思想3 空の論 理(中観)』角川ソフィア文庫、82-83頁。)
7 縁起とは原始仏教以来、すべてのものは原因や条件に依存して生じ、存在する、ということを意味していた。それは、ものは他のものに依らないで自立的に生じたり、存在したりすることはない、という仏教の基本的な理論を表明したものである。したがって、縁起という語には「原因と条件に依る、ものの生起」という意味が含まれている。(梶山雄一著(1983年)『空の思想 仏教における言葉と沈黙』人文書院、66-67頁。)
8 阿毘達磨ともいう。釈迦の死後、その教説は経や律に集約され、弟子達による解釈、注釈が行われ、多くの論書が成立し、各学派に分裂していった。分析的研究を重視するあまり煩雑な一面もあるが、大乗仏教にも大きな影響を与えた。
9 インドの場合の論争というのは、いつでも相手にダメージを与えるというよりも、お互いに発展するための契機になっている。(梶山雄一、上山春平著(1997年)『仏教の思想3 空の論理(中観)』角川ソフィア文庫、241頁。)
10 帰謬論証とは自己の説を立てることなく、反対者の主張を取り上げてその論理的矛盾を衝く論法であって、これによって反対者の主張の立場そのものを否定するのである。中観派で最もよく用いられる帰謬論証はテトラレンマ(四句による否定論法)であって、たとえば、ものが生ずるということについて、論理的に追及するなら、(1)それ自体から生じる、(2)他体から生じる、(3)自体と他体とから生じる、(4)(原因なく)生じる、のいずれかであろう。しかしいずれの場合も、論理的に矛盾して成立しない、と否定する。これがによる否定である。(瓜生津 隆真著(2004年)『龍樹-空の論理と菩薩の道』大法輪閣、185頁。)
11 滅しもせず、生じもせず、断絶もせず、恒常でもなく、単一でもなく、複数でもなく、来たりもせず、去りもしない依存性()は、ことばの虚構を超越し、至福なるものであるとブッダは説いた。その説法者の中の最上なる人を私はする(礼拝の詩頌)。『中論』のまっさきに掲げられたこの礼拝の詩頌は本書の本質を簡潔、に表している。(梶山雄一、上山春平著(1997年)『仏教の思想3 空の論理(中観)』角川ソフィア文庫、80-81頁。)
12 上田義文著(1957年)『大乘仏教思想の根本構造』百華苑を、参照の事。
13 南伝上座部仏教の一派で、多くのアビダルマ文献を擁する。三世(過去・現在・未来)に渡る恒常体の存在を提唱。
14 人間の肉体と精神を五つの要素で読み解く、部派仏教における分類法。色蘊(肉体を含む物質的要素全般)、受蘊(感受作用)、想蘊(表象作用)、行蘊(意志作用)、識蘊(認識作用)からなる。
15 部派仏教では、眼界・耳界・鼻界・舌界・身界・意界と呼称される。
16 脳の主役は「ニューロン」とよばれる神経である。ニューロンは、脳内におよそ1000億個も存在すると推定されている。これら1000億個のニューロンは、たがいに信号をやり取りする回路を形成している。この回路でくり広げられる信号のやり取りこそが、脳の活動のであり、つまりは意識を生みだすもととなっていると考えられている。ニューロンは、……細胞の“本体”である「細胞体」と、細胞体から周囲に伸びる「樹状」および「」からなる。軸索は、樹状突起と同様に細胞体から伸びているが、樹状突起にくらべてその長さが長いことがである。ニューロンの信号伝達は、「電気信号」と「化学信号」によっておこなわれる。電気信号は、細胞体から軸索を通って伝わっていく。軸索の末端は、次のニューロンの樹状突起へとつながっている。この部分を「シナプス」とよぶ。正確にいえば、軸索と樹状突起は接触しているわけではない。両者の間にはわずかなすき間があり、軸索から伝わってきた電気信号は、このすき間を飛びこえて次のニューロンに伝わることはできない。そこで、このすき間を飛びこえるために、化学信号が使われる。軸索のに電気信号が届くと、たとえば「グルタミン酸」のような「神経伝達物質」が軸索の末端から放出される。樹状突起側はその物質を受け取り、これによって信号が伝達されるのだ。このように見ると、ニューロンの活動も、その実体は、物質がひきおこす電気的、化学的な物理現象に過ぎないことがよくわかる。だからこそ、意識というものを科学的に解明できる可能性があるともいえるのだ。(ニュートンプレス『Newton』2012年5月号、26-27頁より要点抜粋。)
17 もっとも、この世界を脳が生み出した虚構として捉える「水槽の脳仮説」を支持するつもりはない。
18 自分をいくら細かく定義しても、そこには自分以外のものしかありません。自我は数学で言う「点」に似ています。数学の点とは、位置だけを持ち面積を持たない図形です。「この二本の線の交わったところが点だよ」と言うことはできますが、目で見える点は面積を持つため定義上の点ではありません。点も自我も人間の頭の中にある概念」であり、実在はしないのです。また自我は、自分にとって重要な記憶によって作られた評価関数ということもできます。自分が誰であるかは、自分が大事だと思う項目を優先して定義しようとします。「東京大学を卒業した自分」より「昨日の朝に納豆定食を食べた自分」が優先されることは普通ありません。実は人間の脳は、自分にとって重要なもののみを認識するようになっています。RAS(Reticular Activating System)によって、自分にとって価値が低いと思う情報は遮断されています。すべての情報を認識していると、脳の情報処理が到底追いつかないからです。RASによって見えなくなるもの、認識の盲点を「スコトーマ」と言います。(苫米地英人著 (2010年)『お釈迦さまの脳科学』小学館、85頁。)
19 1980年代以降、科学の世界では大きなパラダイム転換を迎えます。不完全性定理は、クルト・ゲーデルによって1931年に発表された定理ですが、簡単に説明すると、不完全性定理とは「ひとつの系が完全であることを、その系において証明することはできない」ということです。これが数学全般に渡って証明されたのは、1980年代に入ってからです。また、同じ時期に物理学の世界でも、「全ての物理現象に不確実性がある」という量子論が証明されました。(苫米地英人著(2010年)『お釈迦さまの脳科学』小学館、29-30頁。)