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2013/01/13
聖徳太子の思想から読み解く日本人の死生観

正源直也

I、はじめに
 
日本史上、聖徳太子(廐戸皇子)ほど褒め称えられている人物はいない。いわく、生まれてすぐに言葉を発した、10人の訴訟を同時に聞いて裁いた、予知能力があったなど、超人的なエピソードは枚挙に暇がない。ただ、筆者は伝承通りの「聖徳太子」という超人がいたとは思わない。むしろ多くの伝承による太子伝は誇張、脚色されたものと考える。しかし、「廐戸皇子」という聡明な皇子は存在していたと思う。でなければ、なぜわざわざ天皇ではない「皇子」を、このように人外の存在にしたのかという疑問が残ってしまう。
歴史上の太子信仰の過程を見ると、聖徳太子に憧れた、あるいは聖徳太子という偶像が必要だった人達は、「聖徳太子」の人間性、生き方、思想、死に方について各人の理想や生き方を込めてきた。1つ例を挙げると、『日本書紀』の編纂者である。太子信仰の大本になった日本書紀の編纂を命じたのは天武天皇であるが、全体的に編纂の中心になっていたのは藤原不比等である。不比等の父親の中臣鎌足は中大兄皇子(後の天武天皇)とともに、当時権勢を誇っていた蘇我入鹿らを殺害して政治の実権を握った。彼らはこのクーデターを正当化するための大義名分が必要であった。そのためには蘇我入鹿達が大悪人であったとアピールする必要があるが、それには入鹿によって滅ぼされた廐戸皇子(聖徳太子)の一族は、善の存在として祀り上げる格好の対象であったことだろう。その中でも廐戸皇子は、直接的に入鹿によって殺害されたわけではないが、血筋や生前の功績から特に聖人としてのモデルになりえた存在であった。そして聖人として多くの人から崇められるためには、万人に受け入れられやすい日本人の理想像を作る必要があったのである。どのような思想や行動、能力があったとすれば、人々は「聖徳太子」を聖人として敬服してくれるのか。このことに関して、『日本書紀』の聖徳太子に関する記述には相当な推敲が行われたはずである。
つまり、聖徳太子について知ることは、日本人の根幹をなす思想や生き方を知ることにつながるのである。本論は聖徳太子の実在性にはあまり触れず、「聖徳太子」というフィルターを通して、またそれに関連した概念を用いて、日本人の性質や死生観を論じていきたい。
 
II、ケガレと平和
 
今年(2012年)も8月15日に太平洋戦争の終戦の日を迎えた。この日は日本各地で終戦に関する様々な集会やイベントが開かれたが、これに関するニュース・記事でよく目にしたのが「平和を祈る」、「平和を誓う」という言葉であった。平和が尊いものであることに異議はないが、平和を「祈る」、「誓う」の言葉の裏側に潜む意味を少し考えてみるべきではないだろうか。
率直に言ってこの言葉には、戦争や軍事力などの「ケガレ」た概念を排除さえすれば、平和になるという意味が込められているように思えてならない。少なくても、平和を誓うと言っている人で、平和を実現するための具体的な方法を語る人は筆者の記憶にはあまりいない。
日本人の心には「ケガレ」の感覚が存在している。ケガレとは元々は主に、死体、病体、血、排泄物などから生じるものと考えられてきた。ただし古来より、日本人の考える「ケガレ」とは単なる物事や事象に留まる概念ではない。例えば、今でも多くの日本人は、他人の箸を使って食事をするのは嫌がるだろう。いくら念入りにその箸を消毒したとしても同様であると思われる。これは、日本人は科学的見地からも超越した存在である「アカ」という「ケガレ」を認識しているということである。「水に流す」という言葉も「ケガレ」という概念とセットの語と言える。
天から降臨したアマテラスの子孫の天皇が君臨し続け、厳密な意味での革命(1)が起きたことがない日本では、人々は目上の存在の権威に対して受け入れやすい。そのせいか平和とはどこからから降って湧いてくる、あるいは「平和」と念仏のように唱えていれば自然と平和が降ってくると思っているかのようである。もしかすると「平和、平和」と連呼さえしていれば、何か義務を果たせた気分になれると思っているかもしれない。
しかし、平和とは本来勝ち取らないと得られないもののはずである。これは必ずしも武力を以てという意味では無い。歴史に鑑みると、平和な状態にするには、軍事力であろうと、経済や技術力であろうと、持ちうるカードを全て駆使し、泥臭い努力を怠らないといけないはずである。この点をそれなりの数の日本人が誤解している気がしてならない。日本人がこの誤解をし続けてこられたのは、古代から近代の間では主に日本列島を取り囲む海という鉄壁の守りがあったからであり、また第二次世界大戦後では地政学的条件やアメリカの政策によって平和になっていたからであると考える。
 
III、怨霊
 
怨霊とは、恨みを抱いたりする死霊または生霊のことである。そしてそれらの霊が祟りを引き起こすことを恐れ、その怨霊を神格化させることなどによって鎮魂をすることを怨霊信仰という。
一般的に日本に怨霊信仰が発生したと言われるのは、平安時代となっている。その根拠は、平安期の早良親王(?~785年)の例である。早良親王は桓武天皇の弟であったが、延暦4年(785年)の藤原種継暗殺事件に関与したとして、乙訓寺に幽閉された。親王は絶食を行うなどして無実を訴えるが、配流途中に餓死した。しかしその後、桓武天皇の周囲や都に災難が相次いだため、桓武天皇は早良親王に「祟道天皇」の尊号を追贈するなどをして、親王の怨霊を鎮魂するために心を砕いた。この時に始めて、国が怨霊を鎮めるために、尊号を贈ったり大仏を作ったという事例が国の公文書に明記された。
しかしだからといって、ある時(早良親王の事件)にいきなり新しい風習が突然発生するという事は考えられない。いかに天皇といえども、存在しなかったもの(怨霊信仰)を今日からは存在すると言ったところで、風習や思想は後世には残らない。この早良親王の件の時は相当に桓武天皇や朝廷は切羽詰まっていたようである。基本的に国家や最高権力者が自らの間違いを認めることを記録するということは、どんな国家も古今東西やりたがらないものである。
日本における怨霊信仰の起源に関して参考になりそうなのが、神話に出てくる大国主命と出雲大社である。出雲大社は、天照大神達の天津神に国を奪われた大国主命のために建立された。これはあくまで神話というフィクションの話と思われるかもしれないが、神々の争いの伝承については、完全に創作であると考えるより、なんらかの現実のモデルがあったと考える方が合理的である。またこの神話がフィクションだとしても、自分たちに敵対して敗れていった者たちに対して、神社を建ててあげたという話をわざわざ作ったということが、作者達に鎮魂思想の一端があった証拠に成りうるのである。
日本人は、霊はやがて神になると信じてきた。靖国神社には遺骨や位牌があるわけでもないのに、戦死者が祀られているとされているのは、単純に言って日本のために戦った者が死ぬと靖国神社に魂が行きつくと人々が信じていたからである。日本人は、自然と共に祖先の霊に対して、畏れると同時に敬ってきたのである。ただし過去の死者を大事にするあまり、過去の行いを否定したがらない傾向もある。日本の陸軍が、満州から撤退したがらなかった理由の一つに、「満州を得るための過程で死んでいった者たちに申し訳がない」という心情があったようである。
死者の魂を敬い、慰めるための最適な方法は何であるかと日本人は試行錯誤してきた。そして、そのための方法や技術は体系化されていくようになる。それが神道や仏教、あるいは芸能だったのである。神道や仏教はともかく、現代人からすると、芸能が鎮魂のためのものであったとは考えにくいが、要するに芸能の演技や演奏、振付は神を讃えるためにあったのである。
 
IV、言霊
 
聖徳太子には「聖」と「徳」という、最上級に良い意味の2つの言葉から成る謚号(1)を送られている。「聖」の意味は言うまでもないが、「徳」とは、主に「優れた品性」という意味である。
聖徳太子以後、謚号に「徳」が贈られた天皇は6人いる。第36代孝徳、第48代称徳、第55代文徳、第75代崇徳、第81代安徳、第84代順徳である。ではこの6人はさぞや生前は徳のある素晴らしい人生を送ったのかと思いきや、実際は逆である。この6人は6人とも、明らかに不幸な人生・死に方をしている。
簡単に一人ずつ紹介する。孝徳天皇は645年の乙己変のクーデターの後に、姉の皇極天皇に代わって天皇に即位した。しかし孝徳帝は中大兄皇子の傀儡だった可能性が高い。大化の改新から8年後の653年に孝徳と中大兄皇子は都の場所を巡って対立する。今の難波のままでいいとする孝徳と、飛鳥に戻るべきとする中大兄皇子の対立は、結局飛鳥に遷都という形で終息する。しかしこの大和への遷都の際、中大兄皇子は孝徳を難波都に置き去りにし、先帝の皇極や、孝徳の妻である間人皇后などを大和に連れて行ったのである。そしてこの1年後、孝徳はひっそりと病死した。
二番目は称徳天皇である。この人は女帝で、始めて即位したときは「孝謙」天皇といい、一度天皇の位を譲って、後に再び即位したのが「称徳」天皇である。称徳は聖武天皇の娘だが、聖武帝に当時隆盛を誇っていた藤原氏の皇后(光明子)との間に男子が生まれなかったという事情から天皇に即位した。この女帝には弓削道鏡を天皇にしようとしたというスキャンダルが付きまとっているが、これについては諸説があるのでここでは割愛する。これとは別に称徳帝にははっきりとした汚点が存在する。それは天武朝ともいえる天武以後9代(人数では7人)続いた系統を断絶させたことである。称徳の次の天皇には天智天皇の孫の光仁天皇が即位した。つまり、称徳は先祖から続いた1つの血筋を断絶させてしまったのである。天皇になる可能性が高かった女性皇族は結婚が非常に困難であったため、この血筋断絶について称徳帝個人に責任があるとは言いにくいが、当時の人々にとっては、このことが大層に不吉(不徳)なものだと感じられるものであった可能性は高い。
3番目は文徳天皇である。この人は紀氏出身の紀静子との間に生まれた惟喬親王を皇太子にしようとした。しかし、時の太政大臣藤原良房の圧力によって、良房の娘の明子との間に生まれた惟仁親王が皇太子となった。この時惟仁親王は生後8カ月であった。そしてこの8年後の858年に文徳は突然発病し、32歳の若さで没した。次の天皇が惟仁親王が9歳で即位(清和)する。これ以後藤原氏が太政大臣や左大臣、摂政や関白などの要職を独占していき、権勢を確立していく。
次は崇徳天皇である。この人は自他共に文句無しの怨霊であり、「大魔王」である。この天皇は父の鳥羽天皇にとにかく嫌われた人で、5歳で天皇に即位するが、実権は先帝の鳥羽が上皇として握り、結局23歳で譲位させられた。崇徳には男子がいたが、崇徳の次に即位したのは崇徳の異母弟の近衛天皇であった。その後、1156年に鳥羽上皇が死ぬと、武家や摂関家の一部を率いてクーデターを起こす(保元の乱)が失敗し、讃岐に島流しされた。讃岐の地で崇徳は写経に励み、その写し終えた経文を都に送り寺に納めてほしいと朝廷に差し出した。しかし、崇徳の弟である後白河天皇がこれの受け取りを拒否した。崇徳は激怒して、「日本国の大魔縁となり、皇をとって民とし民を皇となさん」と呪って憤死した。「皇をとって民とし民を皇となさん」とは、アマテラスの子孫が日本を支配し続けるという大原則を明確に否定するものである。
五人目は安徳天皇である。この天皇はわずか8歳の時、平家が源氏との壇ノ浦の戦い(1185年)の敗北によって滅亡する際、海中へ投身自殺をした。また、この時の海中への投身の際、三種の神器の一つの天叢雲剣が紛失したとも言われている。
最期の順徳天皇はどうか。この天皇は1223年の承久の乱を父の後鳥羽上皇と共に主導し、この戦いに敗れた後、佐渡島に流され、そこで死亡した。また、父の後鳥羽上皇は、死後4年間は「後鳥羽」ではなく「顕徳」院と呼ばれていた。しかし、死後様々な怪異が生じ、それらは上皇のたたりとされ、改めて後鳥羽院と追号された。
このように聖徳太子以後、わざわざ6人(後鳥羽も含めれば7人)しかいない、「徳」という良い意味のはずの称号をつけられた天皇は、揃いも揃って明らかに不幸な人生、死に方をしている。では太子のほうはどうか。実は、聖徳太子の人生にも不幸であったと疑われる部分がある。1つ目は太子の死の状況である。日本書紀によると太子の死は単なる病死なのだが、他の資料では、太子は妻の膳部と共に同日に、あるいは一日違いで死去しているのである。事故や戦闘による死ではないのに、妻とほぼ同時期に死ぬというのはどこか怪しさを感じざるをえない。さらに太子ゆかりの法隆寺には、釈迦が身を投げる(自殺)絵画(『捨身飼虎図』)があることも付け加えておく。2点目は一族の滅亡である。日本書紀の記述によると、太子の子の山背大兄王は皇極天皇二年(643年)に、蘇我入鹿等の手によって一族郎党と共に自害に追い込まれた。これによって太子の一族は途絶えてしまったのである。
「聖徳太子」とされる人物が実際のところ、不幸な人生、もしくは悲惨な死に方をしたのかは断定できない。しかし熱心な仏教徒や太子信者たちが、釈迦が虎を助けるために身を投げ出したというエピソードから、日本仏教創成期の立役者とされていた「聖徳太子」も同様な最期を遂げるべき、あるいはそうなったに違いない、と考えても不思議ではない。
日本では身分の高い人ほど、不幸な人生や死に方をした人たちの怨念が怖いと考えられてきた。その呪いを鎮めるための手段として、神として祀る(寺社を建てる)、「徳」のような尊称を付けるなどの方法がとられてきたのである。
 
V、和
 
「和をもって貴しとし、忤うことなきを宗とせよ」。これが有名な聖徳太子が制定したとされる十七条の憲法の1条の漢文書き出しである。この「和をもって~」の部分をはじめとして、この憲法の条文には日本人の特徴が表れている。
まず1条の全文の現代語訳を見てみる。「お互いの心が和らいで協力することが貴いのであって、むやみに反抗することのないようにせよ。それが根本的態度でなければならない。ところが人にはそれぞれ党派心があり、大局を見通している者は少ない。だから主君や父に従わず、あるいは近隣の人びとと争いを起こすようになる。しかしながら、人々が上も下も和らぎ睦まじく話し合いができるならば、ことがらはおのずから道理にかない、何事もなしとげられないことはない」
これは何を言いたいのかというと、要は「みんなで話し合えば、何でも上手くいくようになる」ということである。一般に十七条の憲法は、仏教を中心とした国づくりを行う為の心構えを示すために作られたとされる。しかし、地位の高い人も低い人も話し合えばよいという思想は、果たして仏教にあるのだろうか。続く第2条の書き下し文には「篤く三宝を敬え。三宝とは、仏と法と僧なり」とあり、第3条には「(天皇の)詔を承りては必ず謹め。君をば天とす。臣をば地とす」とある。これはそれぞれ仏教と天皇を敬いなさいと言っているが、一番重要な所は先頭の第1条に書かれてあると考えるのが自然ではないだろうか。
4条から16条は主に具体的な各論が続き、最後の第17条は以下のとおりである。
「重大なことがらはひとりで決定してはならない。かならず多くの人々とともに論議すべきである。(中略)重大なことがらを論議するにあたっては、あるいはもしか過失がありはしないかという疑いがある。だから多くの人々ともに論じ是非を弁えてゆくならば、そのことがらが道理にかなうようになるのである」
この条文は1条の繰り返しと言ってもいい。つまりこの憲法の要諦は、話し合いなさい、そうすれば物事は上手くいくのである、というところにあると思われる。太子は仏教や儒教などの考えを取り入れつつも、日本人の「和をもって貴しとする」の精神を見抜いていたのではないだろうか。
この和の世界では、「みんな」の中での決まったことは絶対で正しいものになる。昨日までは「鬼畜米兵」、「ファシズム」であったのが、これからは「ハロー」、「民主主義」でいこうじゃないか、となればあっさりとそれを受け入れられるのである。ただし、この「話し合い至上主義」の世界では注意しなければならない点が二つある。1つは、その「みんなの中での決まり事」が法律や国際常識的慣習等の規範を、時には容易に破らせてしまうことであうる。現代日本でも、みんなによって決まった正しいことを行う時は、多少法などの規律を逸脱してでもよいという空気になることがないだろうか。2つ目は、「みんな」ではない「ワ(サークル)」の外にいるものに対して強硬な姿勢になることである。自分たちのワ(サークル)を守るためには、外国人や他の人やコミュニティのことを無視したかのようなふるまいを見せるということである。現代の日本政治も、様々な意味で余裕が無いせいもあるだろうが、あまりにも内向きである。海外のことなど無視して国内問題にだけ掛かりきりになり、さらには国内の政治のことよりも永田町での権力闘争に没頭しているようにさえ見える。
「和」という考えが生まれた一つの要因として、日本が山間地の多い島国であったことが考えられる。中国などの大陸国と比べて、日本列島は人が住みやすい平野部が少なく、四方を海によって囲まれている。よっていくら近隣に嫌いな人がいたり、他人と争いを起こしたりしても逃げる場所がないのである。こうした状況の中、なんとか人々が一緒に円滑に暮らしていくための規範が自然とできていったのではないか。
さらに太子の時代は、地方豪族がひしめく群雄割拠の時代であったことも影響があるだろう。「争いをおこさず…」とは支配者(天皇)にとって有利な規範でもある。「人にはそれぞれ~」や「むやみに反抗するな」という文面からもそれが読み取れる。
聖徳太子は、倭の国に存在する「和」という暗黙の規範を理解した上で、天皇を中心とした中央集権型国家体制の構築を目論んだのである。
 
VI、終わりに
 
正直に言って、筆者は巷の「聖徳太子」の実在論争にはあまり興味を持てない。結局のところ、歴史には誇張や隠蔽が付きものであり、仮に厳密に歴史書の記述通りの人間が存在するのかと問われれば、それは聖徳太子に限らず、そんな人物は存在しないと答えざるをえないのである。しかし脚色されているのならば、それはそれで何らかの意味が込められているはずであり、そうなった背景を分析する必要がある。最期に古来より感じてきた日本人の死生観についてまとめる。日本においては、人が死んでもその魂は消えずにどこかに残っているという認識(2)があり、死者の霊魂はやがて自然や神と同化していくと考えられてきたのである。また、生前の功績や人徳(日本では家柄の良い人ほど人徳があると感じられてきた)、あるいは恨みが大きければ大きいほど、格の高い神(怨霊神)になると考えられてきた。そして日本人は、その霊魂に対して畏れや敬いの心を持ち、それら霊魂にあの世で平穏に安らいでもらおうと苦心してきた。このために日本独自に体系化されたのが、神道や仏教などであったのである。
 
参考文献
 
井沢元彦『逆説の日本史1 古代黎明編』平成10年(1998年) 小学館文庫
井沢元彦『逆説の日本史2 古代怨霊編』平成10年(1998年) 小学館文庫
井沢元彦『逆説の日本史3 古代言霊編』平成10年(1998年) 小学館文庫
井沢元彦『逆説の日本史4 中世鳴動編』平成11年(1999年) 小学館文庫
五来重『日本人の死生観』平成6年(1994年) 角川選書
関裕二『「祟る王家」と聖徳太子の謎』平成23年(2011年) 講談社+α文庫
中村元『聖徳太子』(中村元選集、別巻6) 平成10年(1998年) 春秋社
波平恵美子『ケガレ』平成21年(2009年) 講談社学術文庫
谷沢永一『聖徳太子はいなかった』平成16年(2004年) 新潮新書
吉田一彦編 『変貌する聖徳太子』平成23年(2011年) 平凡社
吉村武彦 『聖徳太子』平成14年(2002年) 岩波新書

 

1 謚号とは、天皇やそれに準ずる位の皇族が死んだあとに贈られる称号のことである。
2 この前提には、全てのものには命が宿っているとする「アニミズム」の感覚がある。